■研修紀行 Ⅶ

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アジア文化交流センター06夏の研修──

  ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅

 クーデンホーフ光子ゆかりの地を巡って ⑪




●日本からの寄金でお城を修復

中底で、お城のガイド兼通訳のお嬢さんから概要説明を受けた後館の中へ。内部は外面以上に荒れた感じ。足下に気をつけながら2階へ上がると、内装が修復された部屋が23室。聞けば“本丸”のミツコの部屋とのこと。中にはミツコの足跡やお城の今昔の写真が展示されていました。修復資金を提供した方々の名前を記したステンレス製のエッチング式銘板も。

  プレートには、まず英文で「ミツコ伯爵夫人思い出のこの3室は、次の日本人の皆さんのご協力を得て修復されました」と標記。続いて修復資金を寄せられた方々のご芳名が刻銘されていました。その中には私の知り合いの方々のお名前も見受けられました。転記すれば以下の通り。

Terumichi & Shizuka NARITA  Akemi NAGASHIMA  Osamu SUGIE  Masami SUGIE  Mikio OHTA  Toshimi KONAKA  Miyako TERAKAKU  Keiko SAKAKIBARA  Takeshi MASE  Kazuko HIGAKI  Akihiko MURAKAMI  Tsuyako NAGASAKA  Haruna OKAMURA  Takao & Fumiko OKAMURA」。最後に、発起人としてシュミット・村木眞寿美さんの名が書かれていました。

因みに、トップに記載されている私の友人である成田照導・静香氏ご夫妻は、ロンスベルグ城修復プロジェクトに高額の寄付をされました。2001420日付で、ハプスブルグ家当主 Dr. Otto von Habusburg(オットー・フォン・ハプスブルグ)から、多大な貢献に対するお礼状が届いております。

今から100年前、身を以て日欧交流の架け橋となったクーデンホーフ・光子が暮らした思い出のロンスベルグ城を、直接この目で見、この足で踏みしめることができ感激の至り。夫の早世と時代の荒波という悪条件に見舞われながら健気に生き抜き、カレルーギー家の後継を立派に育て、伝統を後世に伝えた功績は実に偉大。日本人として彼女の偉業を誇りに思うとともに、当時よりはるかに国際交流の環境が整った現今、“世界は一つ”のテーマのもと、日欧交流のますます盛んになることを願うのは私一人ではありますまい。

●ドイツ系住民生者も死者も受難

感動さめやらぬまま館を出てインフォメーション・センターに立ち寄ると、テーブルの上にたくさんのケーキ。そばに柔和な顔つきの白髪のお婆ちゃま。このお婆ちゃま、私たちに手作りのケーキをプレゼントしてくださるとのこと。6070個はありましょうか、団員一同大喜びで戴きました。お婆ちゃまの名前はマリア・シュタインバッハさん。以下はシュミット・村木眞寿美さんからお聞きした、お婆ちゃまについての解説。

「残留ドイツ人の一人、皆さん亡くなって、もう3人くらいしかいないと思います。あの町は、昔からドイツ語を話す人が築いた町で、1945年には2,000人のドイツ人と4-5人のチェコ人(1919年にチェコスロヴァキアができたときに、中央政府が送ってきた役人)と一握りのユダヤ人が住んでいました。しかし、ドイツが敗戦したときに、ナチがおこなったことの為にドイツ系の住民の無差別追放が始まりました。」

「そのとき、さまざまな理由からチエコに残った少数の人がいます。場所によっては職人で、その種の職人が一人しかいないと、拘束されました。チェコ系の人と結婚していたドイツ女性で残った人もいます。理由が分からなく、拘束された人もいます。チェコの兵隊にてごめにされて留まったドイツ女性もいます。マリアさんの場合は、お母さんがチェコ人と結婚していたので、留まったようです。」

シュタインバッハさんの心温まる友好の手作りケーキを戴きお城を後にしました。これで今回の旅の目的はすべて達成された、と安堵感に浸っていましたが、待て待てもう1か所ある、との声。そうそう、ハインリッヒの墓がありました。ロンスベルグ城からバスで数分のところにある墓所を訪れました。前述したように、ミツコの墓はウィーンに、そして夫ハインリッヒの墓はポペチョヴィッツェにと、夫婦離ればなれ。

事前に入手した資料によって、ここがドイツ人墓地であるということは分かりましたが、無い、ゲートに書かれたドイツ語のフレーズが無い。よくよく資料の写真と照らし合わせてみると、資料のゲートは塗料がはげ落ちている部分があるのに対して、目の前のゲートはペイントが塗り直されているようです。それはさておき、第2次世界大戦でドイツが敗れて2,000人のドイツ人は移住を余儀なくされ、以後この墓地は荒れ放題。シュタインバッハのお婆ちゃま同様、ドイツ系の人々は生者・死者ともに苦い思いをしたようです

《次号へ続く/2007.3.21 本田眞哉・記》







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