■研修紀行 Ⅶ

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アジア文化交流センター06夏の研修──

  ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅

 クーデンホーフ光子ゆかりの地を巡って ⑫



再建されたミツコの夫ハインリッヒの墓

荒れ放題の墓地も、これまたビロード革命のお陰でしょうか、欧州人が訪れるようになり、その目をはばかってか、墓地の整備が行われたとのこと。他の墓は廃棄されたり焼かれたりした模様ですが、ハインリッヒの墓だけは改葬・再建されたということです。総丈4mはありましょうか、立派な墓碑。十字架の下の台座には次のように銘記されていました。HEINRICH REICHSGRAF VON COUDENHOUVE-KALERGI そしてその下に GEBOREN  WIEN 12.OCT.1859. GEST. RONSPERC 14. MAI 1906. と、出生地・生年月日と死去年月日・命終地が記されていました。

荒れ放題の墓地が整備されたところからすると、「宗教は阿片である」という共産主義のタガが外れて、チェコ人にも宗教心が戻ってきたのかなと推測した次第。しかし、無信仰 58.3%という統計もあるようで、まだまだ共産主義時代の思想を引きずっているようです。因みに、日本外務省のチェコに関するデータを見ますと、以下のようです。

面積:78,866平方キロメートル(日本の約5分の1)/人口:1,025.1万人(2005年12月)
 首都:プラハ/民族:チェコ人94%、その他スロバキア人、ロマ人等(2001年)/公用語:チェコ語
 宗教:カトリック26.3%、無信仰58.3%(2001年)/政体:共和制/GDP:1,199億米ドル(2005年)
 一人あたりのGDP:11,719米ドル(2005年 為替換算値)

ミツコと離ればなれに眠るハインリッヒのやるせない心に思いを馳せつつ墓地に別れを告げ、私たちはプラハに向けて帰途につきました。時計を見ると午後3時。これで今回の研修旅行の目的としたものはすべて達成。ほッ! が、ここで気を抜くのはまだ早い。というのは、このあと“余録の目玉”オペラ鑑賞があるのです。しかも演目が「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」。奇しくも、アジア文化交流センターのテーマ「ヨーロッパに“アジア(日本)”を訪ねる」にぴったり。

開演は午後8時ですが、その前に夕食を摂らなければなりません。いや、お風呂も…となると、遅くとも6時にはホテルに帰着しなければなりません。気のせいか、ドライバーもかなりアクセルを踏み込んでいる模様。そのお陰かどうか分かりませんが、意外と早くホテルに帰着できました。ゆっくり着替えてオペラ・ハウスへ。

奇しくもオペラ鑑賞は「蝶々夫人」

オペラ・ハウスは国立歌劇場。英語表記ではPrague State Opera、チェコ語標記ではStatni opera Praha。バスを降りて若干時間の余裕があって建物の外で待機していましたが、建物の外観が私の描いていたイメージと食い違うようです。車窓から見た建物の外観は船底の屋根で、どこかのオペラ・ハウスによく似ていたので、私が勝手にそう思い込んでしまったようです。後で調べてみたら、それは国民劇場でした。英語ではNational Theatre、チェコ語ではNarodni divadloと表記。「チェコ人がおのれ自身のために」というスローガンのもと、ドイツ支配下の1883年に民族団結の象徴として、全土から寄付金を募って建てられたとか。

しばらくして国立歌劇場の入場口が開扉。劇場内は素晴らしい。客席ホールの天井に描かれた絵画といい、三層のバルコニーを飾るデコレーションといい、ウィーンの国立オペラ座スターツオパーに勝るとも劣らない感じ。そういえば、チェコの国立歌劇場はウィーンのスターツオパーに相当し、前述の国民劇場はウィーンのフォルクスオパーに相当するのじゃないかな…、と勝手な解釈。

いよいよプッチーニの「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」の開演。日本人の目で見れば、舞台上の大道具・小道具にはいささか違和感を覚える部分もありますが、総体的には素晴らしい舞台。ソプラノもテノールも、はたまたオーケストラも、本場の舞台・生演奏は凄い。劇場内の雰囲気も音響効果も、決して日本では味わえない。お馴染みのアリア「ある晴れた日に」や「さくらさくら」「お江戸日本橋」加えて「君が代」のメロディーが私たちを虜にしていきました。蝶々夫人がピンカートンに捧げる純愛の痛々しさに胸を締め付けられるなか、何とも悲しいエンディング。因みに涙のお代は1,050CZK、約35ユーロ。

日付は変わって825日金曜日、プラハ最後の日。きょうは気楽に市内見学。見学場所は、プラハ城・カレル橋・旧市街・天文時計等々と定番コース。「すべて徒歩での見学となりま~す」とガイド氏。さすが「世界遺産の街」プラハ、教会や建築物から橋や石畳に至るまで、実に重厚かつ力強い佇まいを見せています。1200年の歴史の重みをひしひしと感じる街。度重なる戦と統治者の変転にも拘わらず、こうした景観が維持されているとは驚きの至り。プラハが「黄金の都」「北のローマ」「建築博物館の街」と呼ばれるのもむべなるかな。

また、名だたる音楽家に愛され、大作曲家の足跡が残る街でもあります。「ヨーロッパの音楽学院」との愛称も。カレル橋の袂に立ってモルダウ川の流れを見ていると、スメタナ作曲の交響詩「わが祖国」より2番目の「モルダウ」のメロディーが脳裏に。あたりの喧噪もどこへやら、私一人名曲の世界に浸ってしまいました。アジア文化交流センターの06夏の研修旅行もここに大団円を迎えることができました。       《完/2007.3.21 本田眞哉・記》



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