研修紀行 Ⅷ

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アジア文化交流センター07夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅱ

  
ドレスデンで古伊万里と出会い、
        ポツダムを訪れて日本との接点を学ぶ
 

LH航空の機内食は美味

乗機ルフトハンザ・ドイツ航空LH737便のエア・バスA340-600は順調に飛行。快適な空の旅。今回珍しく座席番号が26A。ほぼ主翼の付け根あたりの位置。いつもは、よくて40番台。そうそう、座席番号といえば、思い出しました10年ほど前のことを。アジア文化交流センターの研修旅行でヨーロッパ線を利用した時のこと。

チェック・イン後ボーディング・カードを受け取って、ン? Class欄がビジネス・クラスになっているじゃありませんか。ツアー・コンダクターの話によれば、エコノミー・クラスがオーバー・ブッキングとやらで、私たちのパーティー、20名ほどだったと思いますが、全員がビジネス・クラスに回されたとのこと。もちろん追加料金なし。思わず“ラッキー!”と叫んでしまいました。

そんなことを思い出していると、安定飛行に移ってから今まで静かになっていた機内の様子が、何となくざわついてきて、同時にプーンとほのかな匂いが漂ってきました。そう、機内食のサービスです。セントレアを飛び立ってから2時間余り、お昼時も過ぎて空腹を覚えていたところ。

配られたメニューには、昼食、ご軽食、正餐の三食について、ドイツ語・英語そして日本語で書かれていました。まずは昼食。「前菜」として、ツナサラダ、キュウリ、トマト うどん付き ロールパンとバター。「主菜」は、鰻蒲焼き丼 グリーンピース、椎茸、御飯 または 牛肉とタマネギの蒸し煮 鞘豆、ニンジン、パセリ和えポテトの付け合わせ。そして「デザート」は果物と盛りだくさん。

私は、鰻蒲焼き丼の方をチョイスしましたが、実に美味でした。近ごろは乗客の舌も肥えてきましたので、街のレストラン同様ヘタな料理は提供できなくなりました。飲み物は、ルフトハンザならドイツ・ビールと決めていましたのでオーダーして頂戴しました。さすが本場のドイツ・ビール、コクがあって素晴らしい味。酔いもほどほどに回って、知らぬ間に夢の世界へ。

12時間眠ったでしょうか、尿意を催してトイレへ。立ったついでに屈伸運動。エコノミー・クラス症候群を予防しなくっちゃ。そう、アジア文化交流センターのある会員の奥様は、アメリカから帰国して成田空港で降機したとたんエコノミー症候群で亡くなられました。A340機は2列通路なので、トイレ・スペースで右折して反対側の通路へ。最後尾でUターンして自席へ戻るコースを繰り返し、“歩行訓練”。

自席へ戻ってブラインドをあげると、相変わらず主翼が太陽の光線を強烈に跳ね返していて眩しい。対地時速800㎞余で太陽を追っかけるように飛行しているので、なかなか太陽が沈みません。いつまで経ってもカンカン照り。

やや陽が傾きかけたかなと思われるころ、LH737便はドイツ・フランクフルト空港にランディング。日本時間のままの時計を見ると、2230分。ローカル・タイムは1530分。予定より15分ほど早くついた勘定。

フランクフルト空港では簡単にEU入国チェックを済ませ、同じくルフトハンザ・ドイツ航空でベルリンへ。フランクフルト空港は年々整備が進んでいるようですが、EU内線への乗り換えがどうも不便。ゲートに至るルートは距離もあるし上下差もあり、ややこしくて分かりにくい。でも、三和田添乗員の誘導よろしきを得てベルリン行きLH188便に乗ることができました。

1時間弱のフライトで首都ベルリンの空港に安着。宿泊ホテルはGRANDHOTEL ESPLANDE(グランドホテル・エスプラナーデ)。空港からさほど遠くないところにある五つ星ホテル。18時到着。家を出てからホテル到着まで17時間、長い長~い1日でした。

●日本ゆかりのポツダムへ

824日金曜日、ベルリンの朝、晴れ。きょうの最低気温は15℃、予想最高気温は26℃。日本での暑さと比べれば雲泥の差。明け方は猛烈な雨と稲妻。聞くところによれば、今年ドイツは、1948年以来の雨の多い年とのこと。例年の倍の降雨量とか。したがって、きょうも晴れてはいるが雨具の用意は欠かせないようです。

専用バスは午前745分ホテル前を出発して一路ポツダムへ。ポツダムまでは約26㎞、バスで4050分の距離。ポツダム市はドイツ連邦共和国東北部に位置する(郡に属さない)独立都市。ブランデンブルグ州の州都。旧東ドイツ領。

ポツダムへ向かう途中、高速道路右側の斜面に競馬場のスタンドのような観覧席。現地ガイドの加藤さんの話によれば、かつてここはカーレースのレーシング場であったとのこと。レーシング場がアウト・バーンに変身したのです。

因みに、ドイツの高速道路アウト・バーンと日本の高速道路との違いは二点。加藤さんがおっしゃいました。一つは通行料金。ドイツのアウト・バーンは無料。ハンブルグからミュンヘンまで何百㎞、何千㎞走ろうとも、一部の商業用を除いては基本的に無料。

二つ目は速度制限。ドイツのアウト・バーンは速度制限なし。街に近いところでは時速80㎞、100㎞の制限があるところもありますが、郊外では片側4車線~5車線あり速度は無制限。時速150㎞で走ろうが、230㎞で走ろうが自由。ただ、それに伴うリスクはすべて本人が負う、ということです。一般的には時速150㎞~160㎞で走るのが普通とのこと。私たちの専用バスも余り飛ばすこともなく概ね時速90㎞から100㎞の安全走行。バスは8時半ごろポツダムに到着。

プロシャ公国時代、ベルリンとポツダムはパラレルに発展してきたとのことです。ベルリンは首都としてアクティブな都市に。政治・経済・文化の活動の拠点がベルリン。一方、ポツダムは風光明媚な湖があり、緑も多く地味豊かということで、王侯貴族の居城や夏の離宮などがたくさん造られました。その数300とか。

そうした中で立派な宮殿が二つあります。一つはサンスーシー宮殿。もう一つはツェツィーリエンホーフ宮殿。サンスーシー宮殿は、18世紀半ば日の出の勢いのフリードリッヒ(Ⅱ世)大王によって建てられたロココ式夏の宮殿。一方、ツェツィーリエンホーフ宮殿は、ホーエンツォルレン家ラスト・エンペラーの嫡男プリンス・ウイルヘルムの居城。まさにプロシャ公国斜陽の宮殿。二つの宮殿の生い立ちは実に対照的。

ところが、この斜陽のツェツィーリエンホーフ宮殿が日本にとってゆかりの宮殿。ドイツの第二次大戦における敗戦後の処理と、日本に全面降伏を要求するポツダム会談が開かれた宮殿なのです。斜陽の宮殿でドイツと日本の落日が話し合われたのです。何ともはや、歴史の皮肉としか言いようがありません。


                                                《次号に続く/2007.9.3 本田眞哉・記》




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