●サンスーシー宮殿はロココ調
二つの宮殿のうち、まずはサンスーシー宮殿の見学と参りましょう。駐車場でバスから降りて歩くこと数分、緩やかな坂を上り詰めたところが宮殿の入り口。まず目に飛び込んできたのは、巨大な鳥籠?じゃなくて、門だったようです。上部につけられた金ピカの太陽を思わせるオーナメントが朝の陽光に輝いていました。目の前に開けた砂地の前庭からは広大な緑の庭園が見下ろせます。
振り返ると宮殿が優雅な佇まいを見せています。黄色の壁に白い窓枠が映えて実に印象的。中央にキューポラを設け、左右対称にウィングが配され、全長が100mもあろうかと思われるすっきりしたスタイル。キューポラの下の鉢巻き状の外壁には「sans, souci」の浮き彫り。
因みに「サンスーシー」はフランス語で「無憂」の意味とか。したがって、サンスーシー宮殿は“憂いのない宮殿”ということになりますか。あのフリードリッヒ(Ⅱ世)大王でも「無憂」に憧れを持っていたのでしょうか。
宮殿の外壁や屋根には繊細な彫刻のレリーフが数々配され、まさにロココ調。この宮殿は1744年にフリードリッヒ(Ⅱ世)大王の構想を受けて、建築家ジョージ・ヴェンツェスラウス・フォン・クノーベルドルフが建築に着手し、1748年に完成したといわれます。宮殿前に広がる広大な庭園もこの建築家の作品とか。「ドイツ・ロココの真珠」と呼ばれているそうですが、むべなるかな。
庭園といえば、前述のように私たちは宮殿の横から“入城”し、前庭から庭園を見下ろしたわけですが、解説書によれば、キューポラの真正面はるか下の方から“入城”するのが「正道」のようです。そうすると、中央の“参道”の両側に階段状の庭園が展開するという寸法。この左右の庭園はぶどうの温室。
なぜ温室なのかといえば、ここポツダムは北緯52度。名古屋が北緯35度、札幌は43度、そして宗谷岬は45度30分。日本各地と比べてみると、ポツダムがいかに高緯度であるか分かろうというもの。にもかかわらず、フリ-ドリッヒ(Ⅱ世)大王は大のフランスびいきで、どうしてもポツダムでぶどうを栽培し、ぶどう酒を造りたかったのだそうです。とても自然のままではぶどうはできません。そこで、この温室を作りぶどうを栽培したとのこと。
フリ-ドリッヒ(Ⅱ世)大王のみならず、ドイツ・ポツダムの人々は温暖な気候を求めて止まなかったようです。ガイド氏の言を借りれば、「ドイツの四季は日本のようにはっきりしているわけでなく、誇張法的に言えば、短い春、一瞬の夏、短い秋、そして永遠の冬」ということになるそうです。
したがって、つかの間の夏をいかに精一杯楽しく、有意義に過ごすかが大問題。ホーエンツォルレン家をはじめ、財力のある諸侯は競って「夏の宮殿」を造って、そこで狩りをしたり水と戯れたりして、一瞬の夏をむさぼるようにエンジョイしたのでしょう。ポツダムだけでも300を超える夏の宮殿(離宮)があったといわれています。
話が脇道にそれましたが、宮殿に向かって敷地内右の隅にフリードリッヒ(Ⅱ世)大王の墓がありました。墓碑の下に大王の遺骸が埋葬されているとのこと。ただし、埋葬されたのは東西ドイツが統一された後の1991年8月のこと。74歳でなくなってから46年の月日が経過していました。では、それまで遺骸はどこにあったのでしょう。
彼は亡くなってまずポツダム市内のガルニソン教会に葬られました。そして第二次世界大戦の終わりには、彼の遺骸はチューリンゲンの岩塩鋼に隠されることに。さらに大戦後はシュトゥットガルト近くにあるホーエンツォーレァーン城に移されました。東西に分断されたドイツが統一されたことによって彼の願いがようやく叶えられ、サンスーシー宮殿の庭に埋葬されることができたのです。こよなく愛した犬たちとともに。
学芸員から墓地のいわく因縁を聞いた後、宮殿の裏側へ回ると内部見学の入口がありました。エントランスから中へ入ると、ン?巨大なスリッパ。靴を脱いでスリッパに履き替えるのは日本流。靴を脱がずに、靴の上から?、否、靴の下に?、要するに靴を履いたままスリッパを履くのがポツダム流。とにかく靴で床を痛めないため、大切な文化遺産を守ろうとする配慮でしょう。
12室ほどある宮殿内部は、多くの絵画・彫刻などで装飾され素晴らしい。調度品も柱の装飾も天井もすべてロココ調。ベルサイユ宮殿やシュエーンブルン宮殿を思い起こさせる風情。フリードリッヒ(Ⅱ世)大王は、宮廷文化の華やかだったフランスに深く傾倒していた模様。宮殿名もフランス語。自国のドイツ語よりフランス語に堪能で、「ドイツ語は兵と馬のための言葉」と仰せになったとか。はたまたぶどう(酒)にも思い入れがあったようで、そのこだわりは温室ぶどう園のみならず宮殿内あちこちにあるぶどうのオーナメントにも現れていました。
●ポツダム宣言ゆかりのツェツィーリエンホーフ宮殿
次なる宮殿はツェツィーリエンホーフ宮殿。サンスーシー宮殿からはバスで30分ほどの距離。入館予約時刻11時にはオン・タイムで到着。ツェツィーリエンホーフ宮殿の外観は、サンスーシー宮殿のロココ調とは打って変わってドイツ調。ベージュ色や白色の外壁にダークブラウンの柱や梁や筋交いの木組み。そしてその上には三角屋根と煙突。宮殿というよりはカントリーハウスといった感じ。
この宮殿は、1917年プロシャ公国皇太子プリンス・ウイルヘルム夫妻の為に建てられた、プロシャ公国最後の宮殿。宮殿名は皇太子妃ツェツィーリエの名に由来しているとか。現在は博物館と古城ホテルとして利用されています。聞くところによれば、このホテルの人気は高く、オフ・シーズンでもなかなかリザーブできないとのこと。
この宮殿の歴史的意義は、何といっても1945年7月に開かれたポツダム会談。博物館の中には会談当時の椅子やテーブルなどの調度品がそのままの状態で展示されています。この椅子に誰が座ったとか、各国首脳の控室とか、会談当時の写真も。私たち世代(1936年生まれ)の日本人としては、歴史の重みが胸にズシーンと響くワン・シーンでした。
1945年5月7日、ベルリンが陥落してドイツが無条件降伏。そのあとを受けて7月17日から8月2日まで、この宮殿でポツダム会談が開かれたのです。メンバーは米英ソ三国首脳。アメリカはハリー・S・トルーマン大統領、イギリスはウィンストン・チャーチル首相(途中選挙で政権が交代しクレメント・アトリー首相)、ソ連はヨシフ・スターリン共産党書記長。議題はドイツの戦後処理と日本に全面降伏を要求する件。
1945年7月26日のポツダム会談での合意に基づいて、アメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳がポツダム宣言(The Potsdam Declaration)を発しました。これは、第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)に関する13条から成る大日本帝国に対する降伏勧告の宣言。宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」ともいいます。
ただ、ポツダム会談とポツダム宣言は必ずしもカーボン・コピーではないということに気をつけなければいけないと思います。まず、英国のウィンストン・チャーチル首相は本国での総選挙敗北の報を受け急遽帰国、後継のクレメント・アトリー首相は総選挙後の後始末のために不在でした。次に、蒋介石中華民国代表もポツダムにいませんでした。そこでトルーマン大統領が自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石には無線で了承を得た)そうです。
さらに、会談に加わっていたソビエト連邦は、大日本帝国に対して中立の立場をとっていたため宣言に加わらず、ソビエト連邦が宣言の具体的内容を知ったのは公表後であったため、ヨシフ・スターリン共産党書記長は激怒したといわれます。ソ連は8月8日に対日参戦し、その後宣言に参加。
いずれにしても大日本帝国は、1945年8月10日この宣言の受け入れを連合国側へ打電し日本の敗戦が確定。そして8月15日、ポツダム宣言受諾の玉音放送をもって戦争は終結しました。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇・政府全権の重光葵と大本営全権梅津美治郎が連合国への降伏文書に調印。蛇足ながら、降伏文書として宮城県白石市の白石和紙が用いられ、マッカーサー元帥が「紙は千年持つそうだが、この条約も千年持つように」と言ったとされています。
因みに、ポツダム宣言の骨子は以下のとおり。
*日本を世界征服へと導いた勢力の除去(6条)
*カイロ宣言の履行と領土を本州、北海道、九州、四国及び諸小島に限定(8条)
*戦争犯罪人の処罰(10条)
*全日本軍の無条件降伏と日本国政府によるその保障(13条)
※冒頭第1条にて、日本国に対し戦争を終結する機会を与える、とし、末尾第13条において、日本軍の無条件降伏とその政府による保障が受け容れられない場合は、迅速且つ完全なる壊滅あるのみ、と声明しています。
《次号に続く/2007.11.2 本田眞哉・記》