研修紀行 Ⅷ

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アジア文化交流センター07夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅱ

  
ドレスデンで古伊万里と出会い、
        ポツダムを訪れて日本との接点を学ぶ
 

シャルロッテンブルグ宮殿は東洋趣味

 何となく心に重いものを感じるツェツィーリエンホーフ宮殿の見学でした。団員一同無口のままバスは昼食のレストランへ。ドイツの原風景である森の中をかなり長い時間をかけて通り抜け、湖畔のレストランに到着。スイスで見かけた山小屋風のレストラン。席は幅23のテラスに設けられ、湖面を滑る遊覧船を眺めながらのランチ。少人数パーティーのよさでしょうか。メイン・ディッシュは鳥料理、美味でした。

 アウト・バーンをとばしてベルリンへ。アウト・バーンはものすごい雨。途中シャルロッテンブルグ宮殿に立ち寄ったころには雨は小降りに。シャルロッテンブルグ宮殿は、プロイセン王フリードリッヒ1世の妃、ソフィー・シャルロッテの夏の離宮として1695年に建造された由。

 宮殿は、中央の塔屋を中心にして左右対称のウィングがのびる質実剛健なスタイル。ソフィー・シャルロッテは東洋思想、特に中国文化に興味を持ったとかで、東洋磁器がたくさん展示されていました。東洋磁器が壁一面天井まで飾られている広間もありました。

 シャルロッテンブルグ宮殿をあとにして40分ほど走るともうバスはベルリン市内。車窓に突然展開したのはベルリンの壁。ガイド氏の口調がやや興奮気味に聞こえたのは私の気のせいだったでしょうか。「皆さま右側です、これがベルリンの壁です!」。見れば手が届くほどの近さに壁が車窓を流れていきます。あわててビデオ・カメラを回します。落書きだらけの壁面。所々直径30㎝ほどの穴が空き向こう側が見えます。

 

ベルリンの壁とブランデンブルグ門

 そもそもベルリンの壁ができた発端はヤルタ会談によるドイツの分割。ドイツは東西に分割され、西ドイツは英・米、東ドイツはソビエトの統治下に置くということが決定。ところがベルリンは東ドイツのど真ん中にありました。東側陣営も西側陣営もこのベルリンは確保したかった。ベルリンは政治経済の中心であり、交通の要衝であったからです。したがって、ベルリンも東西に分断されました。

 ところが、南北朝鮮と同じように亡命・越境が後を絶ちません。そこで発案されたのがベルリンの壁。この壁が一夜にしてできたという伝説がありますがそれは不可能で、1961813日に西ベルリンの町を取り囲むように155㎞の有刺鉄線を張ったというのが実態。その後高さ3.6メートル、厚さ40センチの壁が長さ155㎞構築されたということです。

 そして、この東西ベルリンを分断し続けた壁は1989119日の未明から10日にかけて崩壊しました。あのテレビ報道の衝撃的なシーンは、今でも私の脳裏にしっかりと刻まれています。壁の上に載った若者がハンマーを打ち下ろして壁を壊す場面。一方では削岩機で壁に穴をあけるショット。こうした象徴的な1日を経て東西に分断されていたドイツが統一されたのです。

 専用バスはガタンガタンとかつて壁があった、東西の境界線を越えて旧東ドイツ側へ。1791に造られ数々の近・現代史を見下ろしてきたブランデンブルグ門の近くに到着。プロシャがナポレオンの軍門に降った1806年、ナポレオンはこのブランデンブルグ門を凱旋門としてベルリン入城を果たしました。また、1871年ドイツ帝国の近代国家として成立したことを祝ったのもこのブランデンブルグ門。さらに、前述の壁崩壊の劇的瞬間の映像はこのブランデンブルグ門の前の出来事だったのだそうです。

 きょうはブランデンブルグ門でコンサートが開かれるため、近くにバスを停めることができないとのことで、離れたところから門まで歩くことに。しかし、私にとってはそのことがかえってグッド・チャンスとなりました。何のチャンスかといえば、シャッター・チャンス。

バスを降りたすぐそばからはるか向こうまで「石碑原」が広がっているのです。瞬間脳裏に浮かんだのが、沖縄に設置された「平和の礎(いしじ)」。磨かれた御影石の長方形の石碑が大きさはランダムながら、行・列は規則正しく立ち並んでいます。2005510日に完成したとのこと。一種異様な光景。ただ暗さは感じません。何のためかと聞けば、ユダヤ人への罪・責任を歴史のメッセージとして未来へ伝えるのが趣旨とか。沖縄のように刻銘はありませんが、理念は沖縄と同じなのではないかと思うや切。

隊列からの落ちこぼれを気にしながら、シャッターを切ること十数回。と、ラッキー! 男性が一人石碑の上に顔を出しました。顎を石碑の上端に懸けるようにして。顔が画面の中心になるように構図を決めてカシャッ。果たして出来上がりはいかに? 帰国後作品に仕上げてみるとヤッターッ!


                                                《次号に続く/2007.11.2 本田眞哉・記》




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