研修紀行 Ⅷ

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アジア文化交流センター07夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅱ

  
ドレスデンで古伊万里と出会い、
        ポツダムを訪れて日本との接点を学ぶ⑦
 

●君主の行列壁画と聖母教会

 もう一点感銘を受けた絵画はジョルジョーネの「眠れるビーナス」。ぼかし技法によって描かれた裸体のビーナスが夕暮れ時の物憂い光の中に横たわっています。その向こうに田園風景。遠景には青色の山が描かれています。解説書によると、ジョルジョーネはビーナスの部分だけ描いて亡くなったので、友人のティツィアーノが田の部分を描き足して完成したとか。

 膨大な数の名画を鑑賞してアルテ・マイスターを出てテアター・プラッツへ。テアターは劇場の意、プラッツは場所・平らな所の意ですが、まぁ広場ということでしょう。劇場広場。そう、ここにはオペラ座があります。固有名詞は「センパー・オパー」。「センパー」はこのオペラ座を建てた建築家ゴットフリート・センパーの名前をとって名付けられたということです。

 テアトル・プラッツの真ん中に立つザクセン王ヨハンの騎馬像とセンパー・オパーをカメラに収め、次なる徒歩観光ポイントへ。宮廷教会ホーフ・キルヒェの脇を通ってアウグストゥス・シュトラーセへ。レジデンツ中庭の長い回廊「ランガー・ガング」の裏側に描かれた「ヒュルステンツーク」が見えてきました。

 「ヒュルステンツーク」は「君主の行列」と訳されていますが、この行列にはヴェッティン家の出身の選帝侯・国王35人が描かれています。描かれていないのは最後のフリードリヒ・アウグスト三世(1918年退位)のみ。マイセン焼きタイルで描かれた大壁画で、長さ102m、タイルの数は25,000枚。奇跡的に戦禍を免れた貴重なオリジナル。マイセン伯コンラート(在位11231156)からヨハン王(同18541873)に至るザクセン王達が騎馬姿で行列しています。君主の列の終りには大学長や、画家や彫刻家の姿も見えます。ただ、この壁はレジデンツの北東側の壁なので、午後の後半では逆光線になり写真を撮るにはよろしくありません。

 かなりの人出の中、私たちは歩を進めてノイエ・マルクトヘ。話題のプロテスタント教会「フラウエン・キルヒェ聖母教会」が陽光を受けてサンド・ベージュ色に聳えたっています。素晴らしい建築美。ここには、18世紀すでに教会が建っていましたが、手狭になってきたため市が1722年に新たな教会の建設を決定し、設計を宮廷建築士ゲオルク・ベーアに委託しました。

 4年の歳月をかけた設計では、基礎から最先端まであたかも一塊の石で造られたかのような壮大な建造物の設計図でした。1726年着工されましたが、あまりに膨大な費用を要するため、ゲオルグは費用を節約するために旧教会の砂岩を使用したり、ドーム部分を木造にしようとしたりしました。しかし、アウグストⅢ世から莫大な寄付があり、砂岩の鐘楼が実現することになったということです。

 このドームは外径26m、アルプス北方では最大の丸屋根。バロック様式のプロテスタント教会としてヨーロッパを代表する建築物。内壁と外壁の間には螺旋状の通路があり、高さ68mのところにある展望台に続いているとのこと。ドームの頂上にあるランプ型部分の重さは13,000トンあり、その上の十字架の天辺までの高さは98m。

 

●ドレスデン大空襲で失われた人と物

 ところがこの大建造物、第2次大戦末期の1945213日、連合軍によるドレスデン大空襲によって損傷を受け、さらに内部の火災で支柱が燃え、建物の膨大な重量を支えきれなくなり、2日後の215日午前10時ごろ東側と北西部の壁の一部を残してほぼ全体が崩壊したとのこと。

 崩壊後しばらくして再建が計画されましたが、資金難のため見送られました。以後戦争の悲惨さを訴える警告祈念碑として風化が進んでいました。1989119日ベルリンの壁が開放され、東西ドイツが統一されてようやく再建の気運が盛り上がっていきました。音楽家ルードリッヒ・ギュットラー率いる支援団体の呼びかけが全世界に教会再建支援のうねりを起こし、再建計画が本格化しました。

 技術面では、瓦礫の山から掘り出した膨大な数のオリジナル部材に番号を付けてコンピュータ処理をするという、気の遠くなる作業が行われました。旧部材をできるだけ元の位置に組み込もうというわけ。「ヨーロッパ最大のパズル」と評されたとのことですが、むべなるかな。したがって、出来上がった外壁に“白黒マダラ”の部分も。世界中からの182億円の寄付のもと、着工から11年、総工費200億円余の再建工事は200510月に竣工を見ました。

 ところで、歴史に残るドレスデン大空襲とは一体どんなものだったのでしょうか。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より要旨をピック・アップしてみましょう。

 第二次世界大戦において米軍英軍によって1945213から14日にかけて、ドイツ都市ドレスデンに対して行われた無差別爆撃を指す。この爆撃でドレスデンの85%が破壊され、3万とも15万とも言われる一般市民が死亡した。第二次世界大戦中に行われた都市に対する空襲の中でも最大規模のものであった。

 ソ連軍の侵攻を空から手助けするという一応の名目はあったが、実際は戦略的に意味のない空襲であり、国際法にも違反していたことから、ナチスの空襲を受けていたイギリス国内でも批判の声が起こったという。

 ドレスデン爆撃は基本的な爆撃手法に基づくもので、大量の榴弾で屋根を吹き飛ばして建物内部の木材をむき出しにし、その後に焼夷弾を落として建物を発火させ、さらに榴弾を落として消火活動を妨げようという意図からなっていた。こうした基本的な爆撃手法はドレスデンでは特に効果的だった。爆撃の結果、最高で1,500℃もの高温に達する火災旋風が治まることなく燃え続けた。市街広域で発火すると、その上空の大気は非常に高温になり急速に上昇する。そこへ冷たい大気が外部から地表に押し寄せ、地表の人々は火にまかれる結果となった。

 死者の正確な人数は確認が難しく未だに分からない。現在の公式なドイツによる記録では、21,271人の埋葬者が登録されており、その中にはアルト・マルクト(旧市街)で荼毘に付された6,865人も含まれている。当時の公式記録によれば、322日までに、戦争に関係あるなしにかかわらず25,000人ほどを埋葬したという。5月以降は埋葬の記録はない。後日多くの遺体が市街地から発掘されており、194510月から19579月までに1,557人分、1966までに合計1,858人分の遺体が発掘された。ドレスデン市内が建設と発掘ラッシュだった1990から1994にかけては遺体は見つかっていない。

 《次号に続く/2008.2.26 本田眞哉・記》


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