研修紀行 Ⅷ

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アジア文化交流センター07夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅱ

  
ドレスデンで古伊万里と出会い、
        ポツダムを訪れて日本との接点を学ぶ⑨
 

●ピルニッツ城は愛人のため

 1時間ほど経ったころ鉄橋をくぐります。「ブラウエス・ヴェンダー」と呼ばれる鉄橋。ブラーセヴィッツとロシュヴィッツと呼ばれるエルベ川の両岸地域をつなぐ鉄橋。技師クラウスケブケが設計したもので、長さ150m。吊り橋式無橋脚構造で、当時としては技術的奇跡だといわれました。そして、鉄橋が青く塗られたため、ブラウエス=青い・ヴェンダー=奇跡と名付けられたとか。

 さらに船が進むと、カヌーに乗って川下りを楽しむ家族連れや、サイクリングで河畔を走る若者に出会いました。はたまた、馬の放牧地ののんびりした風景、おもちゃの積み木で造ったようなカラフルな家々等々、おとぎ話の世界が繰り広がられます。そうしたなか、わが乗船「Grafin Cosel」号は低いエンジンの音を響かせ淡々と進みます。

 1時間半余クルーズしたころ、前方にかなり大きな館が見えてきました。そう、いよいよピルニッツ城に到着です。水の館正面にある階段式船着き場を通り過ぎて、船は向かって右側へ回り込んだところの桟橋に接岸。桟橋のゲートには「PILNITZ」の文字。ピルニッツ城の全容が掴めないままガイド氏に続いて庭園まで歩く。以下はこの宮殿の由来についてのガイド氏の説明。

 そもそも6世紀ごろには、ここにスラブ系民族が住んでいて農場があった由。その後15世紀ごろまでは、このあたりを支配していたウインナーという伯爵がルネサンス様式の宮殿を構えていた、と。そして、1694年アウグストⅠ世の兄であるヨハン・ゲオルグ4世がこの宮殿を買収して側室に与えたものの、この二人が1694年天然痘で死亡したため、所有権はアウグストⅠ世に移ったとのこと。そして1717年ごろにアウグストⅠ世がそれまであった宮殿を壊してバロック様式の宮殿に建て換えたとのこと。

 山に近い方に山の館、庭園を挟んでエルベ川に臨むところに水の館を建設。王の好みで中国的要素を織り込んだバロック建築ということです。屋根の上に風見鶏を付けるとか、屋根の傾斜を曲線にするとかしてオリエンタル風に建てたとされていますが、私たち日本人の眼で見るとどう見ても中国的・東洋的とは見えません。完成した宮殿と庭園を、王の第一愛人コーゼル(Grafin Cosel)夫人にプレゼント。何と贅沢な話! エッGrafin Cosel? そう、私たちが乗って来た船の名前だったのです。

 ではGrafin Cosel夫人とはどんな人? 以下はプロフィールの概略。彼女は1680年ドイツ北部の貴族の娘として誕生。幼少の頃から化学的事象に関心を持ち、医薬、数学、醸造など学問に造詣が深く、政治にも詳しい美貌の主。結婚してピルニッツに住んでいたころ、アウグストⅠ世に見初められる。王は自分の側室になることを条件に巨額の年金を約束し、本妻の死後は正式の妃にすることなどを含む密約を結ぶ。夫と離婚後彼女はピルニッツ城を与えられ、国王の寵愛のもと9年間にわたって政治を含むあらゆる分野で権勢をほしいままに。


●アウグストⅠ世夏の居城には日本椿

 ところが、王がポーランド王を兼ねるに際して、ポーランドにおける政治をめぐって彼女は王と対立。王が政策上ポーランドにも側室を持つに至って不仲が決定的に。彼女は密約を盾に対抗しようとしたが、これがかえって国王の怒りを招き、逃避行の末に捕らえられストルペン城に幽閉の身に。当時33歳であった彼女は85歳で死ぬまでの49年間を暗く冷たい石の壁の中で過ごしたという。

 コーゼル夫人が9年間楽しく暮らしたこの城はアウグストⅠ世のものとなり、夏の離宮として使われたようです。王は植物を大変好んで蒐集して楽しんだとのこと。現在も非常に数多くの植物が植えられ、手入れも行き届いています。直径2mはあろうかと思われる木桶の植木鉢に高さ3~4mの椰子の木が植えられていましたが、冬には屋内に収納するのだそうです。

 同じような発想で管理されている椿の木があるとのことで、両館の間にあるシンメトリーの庭を横切って奥のイングリッシュ・ガーデンへ。なるほど、大きな椿の木がありました。高さは10mはありそう。樹齢は230年とも250年とも。しかも日本から渡来した椿と聞きビックリ。その由来はといえば、定かでない部分もあるようですが、スウェーデンの植物学者トゥーンベリが1755年から1776年にかけて日本を訪れた際に、長崎の出島から持ち帰った4本の椿のうちの1本といわれています。ロンドンの王室キューガーデンに植えられていた1本が1801年にここピルニッツへ移されたと伝えられています。だからジャパニーズ・ガーデンでなくて、イングリッシュ・ガーデンなのだ。

 さらにビックリしたのは、この椿冬には温室に収容されるという。どうしてそんなことができるのだろうかといぶかる私の目に、巨大な鳥籠のような温室の姿が飛び込んできました。鉄骨ガラス張りの円筒形の温室。聞けば、冬になると椿の木の脇まで設えられた2本のレールの上を温室が“走行”してすっぽり椿の木を包み込むように収納するという寸法。なるほど。

 1992年にできたこの温室、高さは13.2mで、重量は54トンとのこと。温度や湿度がコンピュータ制御されており、室内温度は4℃~6℃に保たれているそうです。当初は防寒のために藁や筵が使われ、後には木造の温室も造られたようですが、毎年組み立て・解体が必要で手間暇がかかり、さぞ煩瑣だったことでしょう。開花時期は2月から4月ということで、どんな花かは確認できませんでした。

 椿の木をあとに、リスの遊ぶ木立を過ぎ、ガーデンに咲く色とりどりの花を愛でながら水の館へ。館の部屋々々には数々の工芸美術品。マイセンの磁器はもちろん、当時の王侯貴族の間で憧れの的とされていた日本や中国の陶磁器があまた展示されていました。当時、白磁器は「白い黄金」と呼ばれ、金にも匹敵する価値があったとか。こうした食器をテーブルに並べ、螺鈿の漆器や伊万里焼の壺などを飾り、大広間ではワルツが演奏され、華やかな舞踏会が開かれた様子が目に浮かびます。併せて、広い庭園は趣向を凝らした宴の会場に…。そんな想像を巡らしながらカメラのファインダーを覗いている間に、団員はみな館の外。

 

 《次号へ続く/2008.2.26 本田眞哉・記》


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