研修紀行 Ⅷ

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アジア文化交流センター07夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅱ

  
ドレスデンで古伊万里と出会い、
        ポツダムを訪れて日本との接点を学ぶ⑩
 

●名高きマイセン白磁工房を見学

山側の出口にある駐車場には私たちの専用バスが迎えに来ていました。バスはドレスデンから離れてグラバという寒村を通過。この村、人口は3,000人ほどの小さな村ですが有名な村である、とガイド氏。どうしてかといえば、リヒャルト・ワーグナーが長い間住んでいたということで有名。ワーグナーが住んでいた家が「タンホイザーの家」として残されているとか。ワーグナーは昨日見たゼンパー・オパーの第1楽長。後にウィーンで大活躍したことは周知の通り。

やがてバスはアウト・バーンに乗り、1時間余でマイセンに到着。マイセンはドレスデンからエルベ川を下ること30㎞の地点にあり、ドレスデンに比べれば小さな町。人口は4万人余でドレスデンの十分の一。午後1時半過ぎ、陶磁器工場に到着。高さ2m余の白磁のお馬さんが玄関で迎えてくれました。

団員一同腹ペコなので、まずは昼食。工場内のしゃれたレストランへ案内され、素敵な食事をいただきました。料理もさることながら、さすがマイセン、白磁の食器の素晴らしいこと。メイン・ディッシュはもちろんのこと、サラダの皿もパンの皿も、はたまた花瓶までも、すべて双剣のトレード・マークの付いたマイセン磁器。

ドイツ・ビールの味わいを残しながら工房へ。見学は、工程の順にそれぞれの部屋で行われる作業を見るという形で進みます。最初の部屋ではビデオでマイセン焼きの歴史・特徴・製作工程などを日本語で説明。次の部屋はロクロによる成形。そして成形品の修整、下絵付け、上絵付けと焼成工程を省いて順次作業が実演されます。絵筆での絵付けはやり直しがききません。特に、皿の縁取りの線などは一筆書きで、息を殺しての作業。見ているだけでも肩に力が入ってしまいます。世界的に有名なあのコバルト・ブルーの玉葱模様、いわゆる「ブルー・オニオン」も若い女性の描く最高技術による作品なのでしょう。

見学を終えて、売店へ。うーん、素晴らしい。お値段も素晴らしい。団員の中にはかなり高額のおみやげを買われた方もありましたが、私は“見学”と決め込みました。「ウチにも確かいただき物のマイセンがありましたよ」と家内。帰ったら本物か偽物か確かめてみなくっちゃ。


●双剣マークの裏には権力の犠牲者が

ここでマイセン磁器の歴史を辿ってみましょう。17世紀当時、輸入された東洋の陶磁器が珍重され、金銀宝石にも匹敵する価値があり、裕福な上流階級の人々がこぞって収集。中でも最も熱烈なコレクターのひとりがアウグストⅠ世でした。東洋の磁器は白く、薄手で軽く、半透明な釉薬によって仕上げられていて魅力的でした。

当時ヨーロッパには磁器を焼く技術がなく、その秘密を解明しようと各地で努力がなされました。18世紀に入り、ザクセン王アウグストⅠ世の宮廷錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベットガーがようやく製造に成功しました。財政難の中、王は大切な磁器製造技術の秘密を守るため、彼をマイセンのアルブレヒト城に住まわせました。

そして1710年、ヨーロッパでは最初の磁器工場を城内に創設。マイセン窯の誕生です。これがマイセンでの磁器製造の歴史の第一歩となり、以後マイセンはヨーロッパ随一の磁器の生産地としてその名を轟かせることになったのです。1722年アウグストⅠ世の紋章である双剣をマイセン窯の窯印として使うことが許されました。長いマイセンの歴史の中では、窯印もさまざまに変化してきています。

見学工場の玄関には、この窯印がおそらく時代の流れ順ではないかと思われますが、100余の青い双剣マークが白磁の板に描かれていました。底部に書かれた窯印には、双剣のマークの他に絵付け師のナンバーや絵柄の番号が付けられているものもあります。収集家の中には絵付師の署名に強い関心を抱く人もいるようです。この窯印は一つひとつの製品の品質はもちろん、製品が工場を離れた後もヨーロッパの芸術磁器としての信頼を保つために、マイセン工場が全責任を負うことを意味するものです。

工場を後にしてバスで10分ほど、ガイド氏はアルブレヒト城と大聖堂の見える適地へ案内してくれました。今回の旅はマイセン焼きを目玉としたため、マイセンの市街地は見学していません。Bahnhofバーンホーフ(駅)通りをエルベ川沿いに北上し、Altstadt橋の袂あたりに立つと対岸の眺めが素晴らしい。エルベの川面を手前に、そびえ立つドゥオモの尖塔と切り妻屋根が特徴的なアルブレヒト城をフレームに収めシャッターを切る。やや逆光なのが残念。

あのアブレヒト城の中に磁器工場があったのだ。マイセン白磁を開発したヨハン・フリードリッヒ・ベットガーはじめ工場従業員は、秘密保持のため10年間“軟禁”されたという。そのためか、ベットガーはストレスがたまり酒浸りになり37歳の若さで亡くなったとか。高貴なマイセン磁器誕生の陰に権力の犠牲になった者がいたのかと悼みつつ、バスはマイセン市を後にドレスデンへ。

 《次号へ続く/2008.2.26 本田眞哉・記》


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