研修紀行 Ⅸ

 ──
アジア文化交流センター08夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅲ

  
パリの中心地で日本の古民家と出会い

        ベルギー・オランダの文化遺産を訪ねて①   

  
    
 

●映像機器と重量オーバー

 今年の夏は猛暑といいますか、酷暑といいますか、とにかく無茶苦茶暑い夏でした。しかも中休みも無く。最高気温が35℃~37℃の連続熱波。熱中症になるのではないかと心配することしきり。でも、何とか熱暑を乗り切り研修旅行に参加できそうです。毎年のことながら、お盆多忙の直後あたふたと準備をして出かけるアジア文化交流センターの夏の研修。

今年も御多分に漏れず、出発前日8月20日の夜、換え着や肌着や雨具をスーツケースに放り込んで蓋をバタン。問題は重量。このところ航空会社のチェックが厳しく、20㎏をオーバーしていると今流行の「サーチャージ」がかかるとか。昨年からミネラル・ウオーターを持っていくことにしたので重量オーバーは深刻。何せヨーロッパではビールより水の方が高価ですから。ヘルスメータにスーツケースを載せてみると、19.5㎏。家内のは19.8㎏。ともにセーフ。

一方でIT技術革命が旅行携行品の重量軽減に貢献しています。映像機器のデジタル化によって関係機器の重量はかつての重量の20分の1以下。確か1880(昭和55)年だったと思いますが、「日本・インドネシア伝統音楽交歓演奏会」をインドネシアで開催した時のことを思い出します。その時携行した映像機器、特に動画(ビデオ)機器の重量は大変なものでした。でも、国際交流の重要なイヴェントなので収録しておけば貴重な資料になる、ということで…。

当時のビデオ機器はカメラとテープ録画機が別々。一応テープはオープン・リール方式ではなく、カセット方式にはなっていましたが、VHS方式とベータマックス方式の2方式が並行していました。それぞれ特色がありましたが、カセットもデッキも大きくてかさばるものの、一般化していたVHS方式の機器とカメラを用意しました。

カメラだけでも縦横10㎝、長さは30㎝ほどあろうかという大きさ。録画機はコンパクトになったとはいえ、縦横30㎝、高さも10㎝を超えていたと思います。重さはカメラと録画機で10㎏は充分あったと思います。何せ充電式のバッテリーだけでも1㎏ほど。蒸し羊羹くらいの大きさで、録画機に差し込んで使うタイプ。今と違って充電効率も低かったので予備のバッテリーを2本持っていった記憶です。これらのカメラと機器類を収納したキャリー付きのバッグを、空港・機内・道路・王宮内を引っ張ってゴロゴロ。そうそう、三脚も持っていきましたっけ。

会場は、ジャワ島はソロのマンクネガラン王宮内の「プンドポ」。ソロは、「ブンガワン・ソロ」の歌で有名なソロ。古都ジョクジャカルタから北東へ約40㎞、車で1時間~1時間半のところ。交歓演奏会の日本側の出演者は、ボロブドゥール修復支援会の宇治谷会長が学長を務める名古屋音楽大学の雅楽・舞踊団。インドネシア側は、マクネガランを始め、ジョクジャカルタのハメンクブオノ王宮のガムラン演奏団・舞踊団、そのほかスラバヤや中部ジャワ近隣王室のジャワ・ガムラン楽団や舞楽団が出演。演奏会は深夜にまでおよんで大成功を収めました。





●28年前にタイム・スリップ

ボロブドゥール修復支援キャンペーンの趣旨も兼ねた派遣演奏団、総勢81名の大デレゲーションは8月22日午後3時小牧空港発の全日空機で成田へ飛び、ホテル日航成田で前泊。翌日午前11時ガルーダ・インドネシア航空機で成田国際空港をテイク・オフ。6時間半余のフライトでバリ島はデンパサールのングラ・ライ空港に到着。

バリ・ビーチ・ホテルで一泊し翌早朝ガルーダ・インドネシア航空の国内線でジョクジャカルタヘ。ジョクジャカルタはジャワ島のほぼ中央に位置し、仏教遺跡ボロブドゥールへの玄関口。雑然としたにぎわいの古都ジョクジャカルタからボロブドゥールまでは車で1時間余。ボロブドゥール仏教遺跡は、一辺が120mのジグザグ型方形基壇の上に、4階層の方形壇とその上に三層の円壇が積み上げられた壮大な石造立体曼陀羅寺院。高さは42m。

各層には回廊が設けられ、その主壁や欄楯(らんじゅん=手すり)には釈迦の本生譚(ほんしょうたん=釈尊の前生物語)や各種経典の内容を表現した絵図の浮き彫りがぎっしり。地下の隠れた基壇の壁面には分別因果応報経の図絵が120面、第一回廊主壁上段には方広大荘厳経の図絵が120面。第一回廊主壁下段から第二回廊欄楯までの壁面には本生譖の浮き彫り720面。そして、第二回廊主壁から第四回廊欄楯に至る388面には方広大荘厳経入法界品が絵となって浮き彫りされています。最終第四回廊主壁には72面の普賢行願讃の絵図が展開。この素晴らしい塔院・ボロブドゥールは8世紀から9世紀にかけて造営されたといわれます。

総延長数㎞に及ぶといわれる四層の回廊の主壁上には釣り鐘型の仏龕(ぶつがん=仏さまを安置するほこら)が設えられ、東方には触地印を結ぶ阿?(あしゅく)如来、南方には施与印を結ぶ宝生(ほうしょう)如来、西方には弥陀定印の阿弥陀如来、そして北方には施無畏印を結ぶ不空成就如来が安置されています。この四方四仏はそれぞれ92体、合計368体の仏像が安置されているのです。

さらに、第四回廊主壁上には64個の仏龕が置かれ、中には説法印を結ぶ毘盧遮那(びるしゃな)仏が鎮座ましましています。加えて、方形壇の上に続く三段の円壇上には、大きめの目透かし型仏龕が72個配列され、中には等身大の転法輪印を結ぶ釈迦如来像が安置されています。しかもそれらの仏像は全て一石彫り、しかも四肢も面相も芸術的に見ても素晴らしい出来栄えで、いわゆるヒンドゥー・ジャワ芸術の至宝といえましょう。

このボロブドゥール、1814年にイギリスの軍政官トーマス・スタンフォード・ラッフルズによって発見されるまでジャングルの中に眠っていました。日本の文化・文政時代のこと。発見された時は荒れ放題。その後植民地時代、度重なる大戦時代を経て修復もままならず放置されていました。私が1976(昭和51)年、第一回調査団に参加して現地を訪れた時も三分の一ほどしか拝観できなかった記憶です。修復工事は行われていましたがその進捗状況は遅々としているとのことでした。



●今は昔、「ボロブドゥール修復支援会」の軌跡

その後、ユネスコが救いの手を差しのべ本格的修復工事が行われることになりました。現地を調査した本会の宇治谷祐顕前会長は、この大乗仏教遺跡の荒廃ぶりを目の当たりにして、何としてもこの事業が成功させなければならない、と支援活動に立ち上がることを決意されました。そして本会の前身「ボロブドゥール修復支援会」が結成されたのです。

以後、東別院をはじめ各地で展覧会や講演会を開催したり、有縁無縁の方々に協力をお願いしたりして、草の根の募財活動を展開しました。NHKテレビを始めマスコミにも取り上げていただき一大キャンペーンを張りました。しかし、なかなかまとまった金額には達せず、思案投げ首。そうしたなか、いくらPRしてもボロブドゥールそのものが理解されなければダメだということで、幹事会員の中から現地を見てもらうツアーを計画したらとの提案。

一部慎重論もありましたが、料金は格安でしかも1万円の寄付金付き、小牧空港発着のチャーター便でという基本線で企画が進められました。エージェントは前からご縁のある日通航空に依頼。種々検討の結果、最終的にはエア・マニラのボーイング707型機をチャーターして4陣の団員をピストン輸送するということで決着。当時国際線の花形航空機はダグラス社のDC8とボーイング社の707型機。いずれも4発ジェットで確かキャパシティーは170~180席だったと思います。

第2回調査団と銘打った修復支援寄付金付きツアーは、1979(昭和54)年7月12日(木)~17日(火)の第1号機(毘盧遮那機)を皮切りに、7月17日(火)~21日(土)の第2号機(阿?機)、7月21日(土)~26日(木)の第3号機(宝生機)と、エア・マニラ機は全て177席満席でマニラ経由、成田-デンパサール間をピストン輸送。第4号機(阿弥陀機)は7月26日(木)~31日(火)の日程で114名の参加を得て実施。ただ、ジョクジャカルタヘの国内線のフライトが確保されず、インドネシア空軍系の機材を使ったケースも。いずれにしても、この壮大なプロジェクトは何の事故もなく無事円成することができました。参加者は合計645名。

かくして集まった修復支援の浄財1千万円余をパリのユネスコを通じてボロブドゥール修復公団へ寄付。縁とは不思議なもので、ユネスコのボロブドゥール修復執行委員長・須山達夫氏が私の自坊の門徒の縁戚の方だということが分かってビックリ。作家・永井荷風の永井家一統は、私の自坊了願寺の400年来のご門徒。ご本家の先々代当主永井松三氏は、吉田茂元総理らとともに外交官として活躍。そのお嬢さんが須山達夫氏の奥様だったのです。幼少のころからお父さまの任地イギリスやアメリカで暮らされたので英語力は抜群。昭和の皇后陛下がイギリス王室を訪問された時は通訳として随行されたと聞き及んでいます。

話が脱線に脱線を重ねて二昔ほど前に戻ってしまいましたが、もう一つだけ書き留めておかなければならない重要なことがありますのでお許しください。それは、ボロブドゥールの修復工事が竣工して、現地での修復完工記念式典にわが修復支援会の代表が招待されたこと。その式典は1983年2月23日(水)に執り行われました。本会からは宇治谷祐顕会長と大村栄之助幹事が参列しました。残念ながら私は法務の関係で出席できず、大村幹事に代理出席をお願いしました。

宇治谷前会長の記録によれば午前9時55分、正・副インドネシア大統領臨席のもと、塔院裏(西)の特設式場で開式。日本からの主な出席者は、修復執行部側として須山達夫・ユネスコ執行委員長、千原大五郎・運営委員(建築家)。招待来賓として小山五郎・三井銀行取締役、高垣寅次郎・ユネスコアジア文化センター委員長、芦原義重・万博記念協会理事長、伍堂輝雄・東京空港交通㈱会長、宇治谷祐顕・名古屋ボロブドゥール修復支援会会長。

 因みに、この名古屋ボロブドゥール修復支援会の偉業は、塔院境内西北隅に建立された修復事業記念モニュメントにその名が刻銘され、末永く顕彰されています。高さ幅とも3m余の自然石の側面に「BOROBUDUR RESTORATION SUPPORTING GROUP IN NAGOYA」の金文字が燦然と輝いています。修復支援をした全世界9団体の中に肩を並べて。しかも他の団体はアメリカの企業IBMを除いてはほぼ公共か半公共団体。草の根活動の民間の修復支援団体はわが「名古屋ボロブドゥール修復支援会」のみ。



 《次号へ続く/2008.9.2 本田眞哉・記》


          to アジア文化交流センターtop