●ヨーロッパ線「ポール・ルート」の思い出
航空機持ち込み携行品の重量オーバーに絡んで、記述がIT技術の急速な進歩による映像機器の小型化の話題に脱線し、さらに我がセンター生い立ちの記に欠かせないボロブドゥール談義へと迷走してしまい恐縮。本題へ戻りましょう。
2008年8月21日(木)午前8時、団員22名+添乗員1名総勢23名がセントレア国際線出発ロビーに勢揃い。心配されたチッキ荷物の重量オーバーは一人もなく全員パス。ところが、次の機内持ち込み手荷物の検査は以前比べて一段と厳しくなり、鋏やナイフのみならず液体・ジェル類も厳しくチェックされ、化粧水はもちろん口紅やチューブ入りの薬までも検査対象。許可されるのは要領100ミリリットル以下。でも、全員何とか通過。
エア・フランスと日本航空が共同運行するAF295便は10時5分オン・タイムで中部国際空港の滑走路からテイク・オフ。共同運行とはいうものの機材はJAL、乗務員も日本人が圧倒的に多い。日本人乗客としては安堵感をもって過ごせる機内雰囲気といえましょう。ご存じのように、ヨーロッパ線は長時間飛行となるため何回か食事とドリンクのサービスがあります。最近は機内食も大変おいしくなりました。特にセントレア発の場合は地元のケータリング会社の調理のためか、私たちの口にフィット。
食事をしたり、ドリンクをいただいたり、新聞を読んだり、お喋りをしたり、時には眠ったりしていると長時間飛行もそれほど苦になりません。太陽を追っかけ、追っかけ12時間、AF296便は現地時間15時(日本時間22時)パリのシャルル・ドゴール空港に安着。陽はやや傾いていたもののカンカン照り。市街地のど真ん中のコンコルド・アンバサダー・ホテルにチェック・インした後も、すぐ近くのオペラ座界隈を散策できるほど時間にゆとり。
今から30年ほど前、名古屋音楽大学の学生を引率してパリを訪れた時のことを思うと、航空事情は飛躍的に改善されています。確か夜10時頃成田を出発。約6時間半の飛行で、まずアラスカのアンカレッジ空港に着陸。そこで1時間30~40分のトランジット。ここで展開される異様な光景に唖然とした記憶があります。何せジャンボ機一機でも400~450人の乗客、2~3機が同時となれば1,000人以上が免税店に殺到するわけです。
免税品のおみやげをここで予約といいますか購入しておいて、帰路のトランジット時にその品を受け取るという仕組み。当時ヨーロッパのおみやげといえば、高級ウイスキーやコニャック、有名ブランドのバッグや万年筆等々が定番。そうそう、超高級腕時計もありましたっけ。日系アメリカ人店員が流ちょうな日本語で応対。戦場のような雰囲気に巻き込まれ、つい不要なものまで買ってしまう始末。
乗機の給油・整備が終わったところで再び機内へ。日本時間の午前6時ごろ-15℃のアンカレッジ空港を離陸して一路ロンドンへ。離陸後安定飛行に移り朝食サービス。航路は北極上空を通過。そこでこの航路をNorth Pole (ノース・ポール=北極)Route(ルート)といいます。アンカレッジ-ロンドン間の所要時間は9時間30分。したがって成田を出発してロンドンに到着するまでの所要時間は、トランジットを含めると合計17~18時間。昔のヨーロッパ旅行は大変でした。旧ソ連の規制で西側の航空機はシベリア上空を飛べなかったため。
●モネの『睡蓮』そのままの池に感動
さて話を元へ戻しまして、私たちはオペラ座近くのコンコルド・アンバサダー・ホテルで8月22日金曜日の朝を迎えました。天気は雨。ホテルの前の止まっている専用バスに乗り込むのにも小走りで。きょうの予定は、午前中にジヴェルニーに向かい、印象派の巨匠画家クロード・モネの家を見学。午後はパリへ戻って、シャイヨー宮に移築された日本の古民家を見学。この古民家見学は今回の研修のメイン・テーマ。そのあとギメ美術館を見学するというスケジュール。
ジヴェルニーはパリから北西へ約80㎞、バスで1時間余のところ。わが専用バスはパリ環状高速道路からノルマンディ自動車道A13号線に入り、雨の中ひた走ります。A13号は片側3車線の快適な高速道。路面もよく整備されており時速140㎞のスピードでも安定した走り。現地在住の日本人女性ガイドの佐野さんが、道中フランス事情について事細かに説明してくださいました。
フランスの国土面積は日本の1.5倍、人口は日本の半分、それでいて失業率は10パーセント。そこで随分前から労働時間を週35時間としているとのこと。小さなケーキをみんなで切り分けて食べましょうという発想なのだそうです。一方、日本人はよりよく働くためにバカンスを楽しむが、フランス人はバカンスのために仕方なく働くとか。話は飛んで、ビールを飲んだ後の行動のこと。ビールを飲むと日本人はよくトイレに立つが、フランス人は滅多に行かない、と。出すのがもったいないのか貯蔵タンクがでかいのか。したがってフランスではトイレの数が少ないとか。国民性もいろいろ。
そんな話題に感心している間にバスはジヴェルニーに到着。緑豊かな佇まいの駐車場からまずは睡蓮の池のある庭園へ。池に至る小径の脇には小川が流れ日本風。小橋を渡って視野が開けたそこには、モネの作品で見たあの睡蓮の池の姿がそのままに私の目に飛び込んできました。驚きでした。100年前にタイム・スリップした感じで感動、感動。別の観点からすれば、睡蓮や池をはじめ周りの樹木がよくもまあ長期に亘って維持管理されてきたものだと感心、感心。
柳が大きく枝を垂れて水面に映え、太鼓橋が架かり、竹が植えられた日本風庭園、これは単にモネの趣味ではなく、彼が絵を描くためのモチーフ造りのために欠かせないものでした。時間、気象、季節によって微妙に変化する庭園の表情をモチーフに『睡蓮』が連作されました。のみならず、モネは庭造りを楽しんだともいわれます。草むしりはもちろん、雇い入れた園丁とともに庭仕事に励んだとのこと。
モネの屋敷は道路を挟んで南北二つのエリアに分かれています。睡蓮の池のある庭園は南の部分。小雨のぱらつく中、落ち着いた佇まいを見せていました。場所を変え、アングルを変え20ショット余シャッタを切ったりビデオカメラを回したりして庭園の風景を記録にととどめ、南のエリアへと歩を進めました。
道路の下をくぐる地下道を通って北の屋敷へ。こちらは池の庭園とはうって変わって明るい花園。夏というよりは初秋の感じの現地ですが、庭園にはあらゆる種類の花が咲き乱れていました。ズーム・アップして数々の花をカメラに収録。ふと振り返ると灌木の葉の陰に何か蒼いもの。リンゴでした。初々しい表皮に雨の雫が2~3滴。どアップでカシャッカシャッとシャッタ・ボタンを押していると、ガイドの佐野さんからモネの家記念館の見学についてのアナウンス。
花園より一段高いところにモネの家記念館はありました。記念館は学校の校舎のように細長く南北に延び、東側正面中央に玄関がありました。この記念館、もともとモネが暮らしていた家。ダイニング・ルームには壁いっぱいに所狭しと浮世絵版画が飾られていました。その他の部屋にも彼が愛し影響を受けた浮世絵版画や、陶磁器を中心とした日本の美術品が数多く展示されていました。今回の旅のテーマ「ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅」にぴったりの第一ステージでした。
そもそもモネは、1871年ロンドンでターナーと出会い、その後立ち寄ったオランダで自分自身のその後を決める決定的な出来事に遭遇しました。オランダのズァンダムで日本の版画に出会ったのです。モネは初めて浮世絵版画を見てその素晴らしさに驚喜したといわれます。浮世絵を一目見た瞬間、彼は網膜に写った日本の芸術の底に流れる真髄を、たちまちのうちにスポンジのように吸収してしまったのです。この記念館に数多の浮世絵版画が収蔵されている所以はそこにあったのです。
モネがアトリエを構え、制作に励んだ屋敷の記念館。当然ここで彼が描いた絵が鑑賞できると思われる方もあろうかと思いますが、さにあらず。モネが描いた絵をご覧になりたいムキは、パリのモネ美術館かオルセー美術館へお越しください、とのこと。そうそう、モネの絵画展は今年の夏名古屋でありましたね。金山の名古屋ボストン美術館で。名古屋で集中的にモネの作品が展覧されることは滅多にないということで私も7月の末に鑑賞しました。素晴らしい作品群でした。
《次号へ続く/2008.11.2 本田眞哉・記》