研修紀行 Ⅸ

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アジア文化交流センター08夏の研修 ──

 
ヨーロッパに“アジア”を訪ねる旅 Part Ⅲ

  
パリの中心地で日本の古民家と出会い

        ベルギー・オランダの文化遺産を訪ねて④   

  
    
 

●流ちょうな日本語を話すジャーヌ・コビー女史

モネの屋敷、モネの記念館を後にして、私たちの専用バスはジヴェルニーの町を離れました。しばらく地道を走ったあとA13号・ノルマンディー街道をパリに向けてひた走ります。ノルマンディーといえば我々古い世代は第二次大戦の「ノルマンディー上陸作戦」思い起こします。ガイド嬢によれば、「ノルマンディー」とは「ノード・マン=北の人々」の意味だそうで、もともとはバイキングとのこと。

 バスは蛇行するセーヌ川と付いたり離れたりしてパリに到着。セーヌ川右岸を走っている時、ガイド嬢が突然「ここです、ここです!ダイアナ妃が自動車でぶつかったのは」。瞬間で通り過ぎましたが、TVニュースで見た事故現場の光景を思い出し、胸の痛む思い。雨空が一層重い空気を漂わせていました。

 市内のレストランで昼食をすませ、今回の研修旅行のメインの訪問先であるシャイヨー宮へ。シャイヨー宮の博物館 MUSEE DE L’HOMME に私たちが到着したのは1時半を過ぎていましたが、ジャーヌ・コビー女史は未だいらっしゃっていない様子。ジャーヌ・コビー女史には建築家・降幡廣信先生からアポイントメントが取ってありました。彼女は日本文化人類学の研究では第一人者で、降幡先生ご指導のもと古民家移築のプロジェクトを主宰されたとのこと。

1階のロビーで待つこと数分、ジャーヌ・コビー女史がご到着。かなりのご年配のようですが、頑丈な体躯できびきびとした身のこなし、加えて流ちょうな日本語に団員一同圧倒されました。彼女の誘導のもと、アドミッション・フリーで入場ゲートを通過して2階へ。シャイヨー宮は、ご存じのように1937年のパリ万博に建てられたパビリオン。それが博物館として活用されているようですが、このたび日仏修交100年記念の一環としてなのでしょうか、日本の古民家が2階に展示されることになったようです。

ところが、ジャーヌ・コビー女史や降幡先生からの情報によりますと、このプロジェクト推進中に少々トラブルがあった模様。そのため公開が遅れ、今以て一般公開はされていないとのこと。したがって私たちは特別公開の恩恵を蒙っているということです。実際移築工事が実施されたのは昨2007年の初めからで、昨年の夏には完成していました。

では、公開が遅れているポイントは何かといえば、古民家に使われる石の重量。開田高原の民家には土台と屋根に石が使われています。その重さに展示場のフロアーが耐えられないということ。さらに、そこへ観客の重量が加わったら床の強度が足りないとか。いかにもフランスらしい話。計画の段階で、移築建築物の重量と博物館の構造・強度は分かっていたと思われるのに…、理解に苦しむ話。

そのためでしょうか、現場のアシスタントは、古民家の建っているフロアーへは5人しか入れませんと言っていましたが、ジャーヌ・コビー様はそんなことは意に介せず、説明をしながら私たち全員(23名)を古民家のそばまで入れてくれました。イヤー、凄い。よくもまー忠実に再現されたものだ、と一同感心することしきり。



●シャイヨー宮で日本を物語る古民家

展示場は幅が12~13m、長さ20mはありましょうか、大学の合同教室のような殺風景な1室。そこに日本の開田高原から移築された古民家が建てられていました。平屋建てなので棟高そんなに高くなく、部屋の天井高の範囲内に収まっていました。屋根の上を見ると石が乗っかっていません。そう、出発前に降幡先生からいただいたEメールで、建物の重量を軽減するためにご長男が現地に赴いて屋根の石を取り除いたとかおっしゃっていました。

建物の中をのぞくと、居住スペースと農作業スペースが一体になった構造。居住スペースの中心には10畳ほどの広さの居間。腰高の障子や拭き込まれて黒光りする板戸に囲まれた居間には囲炉裏がきられ、造り付けの戸棚の上の棚には「立春大吉」等の民俗信仰の札紙やしめ縄が数多飾られていました。

8畳ほどの広さの納戸の戸棚の上段にも仏壇らしきのものが設えられ、室内には2台の機織り具が置かれていました。ジャーヌ・コビー女史によればこの家は畑中さんという方のお宅で、ご主人は県の無形文化財に指定された麻織りの達人とか。台所らしき部屋では、見覚えのある脱穀器具や調理器具にお目にかかることができました。

一方、農作業スペースでは馬か牛か定かではありませんが、家畜が暮らしていた?様子がうかがえます。寒い地方のこととて、家畜も家族同然に扱われていたのでしょうか。壁には蓑笠やかんじきが掛けられ、床には足踏み脱穀機やむしろが置かれていました。また、麻を晒したのでしょうか、丸木をくりぬいた「ふね」も目にとまりました。

この農作業スペ-スに続く外庭には、刈り取った稲を架けて乾燥させる「稲架(はさ)」が展示されていました。トイレが建物の中に見当たらなかったようでしたが、なるほど外庭にありました。若干古民家より新しく見えましたが、いわゆる「厠(かわや)」。因みに、「厠」の語源は「川屋」で、川に二枚の板を渡したかどうか定かではありませんが、文字通り川の上に小屋を建てて用を足したことに由来するとか。水洗トイレの元祖かも。


 《次号へ続く/2008.11.2 本田眞哉・記》


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