法 話
(171)「
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大府市S・E氏提供 |
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の
以下はその現代訳。
親鸞においては、ただ念仏してアミダにたすけていただこうと、よきひと(法然聖人)の教えを受けて信ずるほかに、特別のわけもないのである。念仏は、ほんとうに浄土に生まれる因(たね)であろうか。また、地獄におちる業なのであろうか。そういうことは、まったく私の関知しないところである。たとえ法然聖人にだまされて、念仏して地獄におちたとしても、すこしも後悔はしないであろう。というのは、念仏以外の修行をはげむことによって、ブッダになれるはずの身が、念仏を称えたから、地獄におちたというのであれば、「だまされて……」という後悔もあるであろう。しかし、どのような修行もできないこの身であるから、どうしてみても地獄は、私にとって決定したすみかなのである。(真宗教団連合編『歎異抄』)
『歎異抄』の作者は誰か、詳らかではありません。が、親鸞聖人の弟子の唯円であろうとするのが定説になっています。内容は、親鸞聖人滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった異義・異端を嘆いたもの。したがって、書名も文字どおり「異」を「嘆」いて書かれた抄文。『歎異鈔』とも書きます。親鸞聖人滅後、歪んだ教えを説くものが出てきたのを嘆いた唯円房が、今まで聞き受けた教えをまとめて文章にしたとされています。聖人の思想に迫ってくるものがあり、他力信仰の極致が述べられておりますが、聖人直筆のものではないことに注意して読みたい書物です。
さて話を元に戻して、20年間求め続けた真実の道を法然上人の他力念仏の教えに見出された親鸞聖人、法然上人の前に全てをなげうって上人に帰依されたのです。そして、法然上人の吉水教団に身を置き、どのような階層の人々であれ同じ人間として生きているよろこびと、人の世のぬくもりを感じていくことのできる念仏者の僧伽を見出しておられたのです。それは、どのような世間的権威をも必要としない仏法の僧伽でした。その僧伽は、あらゆる階層の人々に道心を呼び起こしていき、これまで仏法とは無縁なものとされていた一般の庶民をはじめ、僧や貴族・武士などが、吉水の法然上人のもとにつどい、一つの念仏に和していったのです。
しかしその一方、そうした教団に対して非難や圧迫が起こりはじめていました。1204(元久元)年冬、延暦寺の僧たちは重ねて念仏の禁止を天台座主真性に訴えたのです。そのため同年11月、法然上人は七箇条制誡をつくり、門弟に厳しい戒めへの誓いの署名を求めました。このとき親鸞聖人は、「僧綽空」の名をもって署名に加わっています。
さらに翌1205(元久2)年10月、奈良の興福寺が法然上人ならびにその弟子たちの罪を数え上げて、処罰するよう朝廷に強く迫りました。そして翌年12月、院の御所の女房たちが法然上人門下の住蓮坊・安楽坊らの念仏会に加わったことが、後鳥羽上皇の怒りを呼び、興福寺の奏状がにわかにとりあげられ、1207(承元元)年2月、住蓮坊ら4人が死罪に、また法然上人はじめ8人が流罪に処せられるにいたったのです。このとき法然上人は、「藤井元彦」の罪名のもとに土佐国へ、親鸞聖人は「藤井善信」の罪名で越後の国へ流罪となりました。その後、この子弟はついにふたたび相合う時を持つことなく終わったのです。
しかし、このような非難圧迫は、これまで仏教の名を掲げてきた聖道の諸教団が、すでに行証が久しくすたれているすがたであると、聖人は見ぬかれていたのです。事実、この権力による吉水教団への弾圧も、法然上人が人々の道心のうちにうちたてられた仏法の灯火を打ち消すことはできなかったのです。それどころか、本願念仏の法のみがこの苦難の世界を生き抜いていく力を人々にひらく真の仏道であることを、ひろく証しすとになったのです。
合 掌
【次号へ続く】
《2015.6.1 前住職・本田眞哉・記》
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