法 話

(172)親鸞聖人のご生涯(4) 
 

 

 

   

 

大府市S・E氏提供

親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)ご生涯(  しょうがい)(4)
    

  

 1207(承元元)年2月、法然上人は「藤井元彦」の罪名のもとに土佐国へ、親鸞聖人は「藤井(よし)(ざね)の罪名で越後の国へ流罪となりました。その発端となったの1205元久210後鳥羽上皇へ提出された念仏停止を求める南都興福寺からの奏状。専修念仏の教えを唱道する(ほう)然坊源(ねんぼうげん)(くう)吉水教団に対して、その教えを(ただ)し念仏禁止を求め朝廷に上奏。この上奏文の起草者は法相宗中興の祖といわれる笠置寺の解脱坊(げだつぼう)貞慶(じょうけい)11551213)といわれています。以下の九箇条の過失を挙げ、その処罰を強く求めています。

 『興福寺奏上』

  奏状は、専修念仏を非難する理由として、
     1.「新宗を立つる失」…正統な論拠を示すことなく、勅許も得ずして、新しい宗派を立てること。
     2.「新像を図する失」…専修念仏の徒のみが救済されるという、根拠に乏しい図像を弄すること。
     3.「釈尊を軽んずる失」…阿弥陀如来のみを礼拝して仏教の根本を説いた釈迦を軽んずること。
     4.「万善を妨ぐる失」…称名念仏だけを重んじて造寺造仏などの善行を妨害すること。
     5.「霊神に背く失」…八幡神や春日神など日本国を守護してきた神々を軽侮すること。
     6.「浄土に暗き失」…極楽往生にまつわる種々の教えのなかで特殊で偏向した立場に拘泥すること。
     7.「念仏を誤る失」…さまざまな念仏のなかで、もっぱら称名念仏に限って偏重すること。
     8.「釈衆を損ずる失」…往生が決定したなどと公言して悪行をはたらくことをおそれない不心得な念仏者が多いこと。
     9.「国土を乱る失」…国を守護すべき仏法の立場をわきまえず、正しい仏法のあり方を乱してしまうこと。

 こうした親鸞聖人の人生最大の危機的状況を、後年ライフ・ワーク『(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)』の「後序(ごじょ)」の中で次のように記されています。

   【原文】

(ひそ)かに(おもん)みれば、(しょう)(どう)の諸教は行証(ぎょうしょう)(ひさ)しく(すた)れ、浄土の真宗は(しょう)(どう)いま盛んなり。(しか)るに諸寺の釈門(しゃくもん)、教に(くら)くして(しん)()門戸(もんこ)を知らず、(らく)()(じゅ)(りん)、行に(まど)うて(じゃ)(しょう)の道路を(わきま)うることなし。ここをもつて興福寺(こうぶくじ)の学徒、太上(だいじょう)天皇(てんのう) (いみな)(たか)(なり)今上(きんじょう)天皇(てんのう) (いみな)(ため)(ひと) 聖暦(せいれき)(じょう)元丁(げんひのと)()の歳、仲春(ちゅうしゅん)上旬(じょうじゅん)の候に(そう)(たつ)す。(しゅ)上臣下(じょうしんか)、法に(そむ)()()し、忿(いかり)りを()(うら)みを結ぶ。

これに()って、真宗(しんしゅう)興隆(こうりゅう)大祖(たいそ)(げん)(くう)法師(ほっし)ならびに門徒()(はい)、罪科を考へず、(みだり)りがはしく死罪に(つみ)す。あるいは(そう)()を改めて姓名(しょうみょう)(たも)うて遠流(おんる)に処す。予はその(ひとり)なり。しかればすでに(そう)にあらず(ぞく)にあらず。このゆえに禿(とく)の字をもつて(しょう)とす。空師(くうし)ならびに弟子(でし)()、諸方の辺州(へんしゅう)(つみ)して五年の(きょ)(しょ)を経たりき。

【現代文】

ひそかに思いみれば、(しょう)(どう)の教えは修行も証りも久しくすたれ、浄土の真宗は証道いまさかんである。そうであるのに、権威を誇る仏教界は、仏の教えに暗く、浄土の真実と方便の門を知らない。知識におごる都の指導者たちは、仏の行にまどい、外道と仏道をわきまえることがない。このようなことだから、興福寺の学僧たちは、()鳥羽院(とばいん)に念仏禁止の訴えをおこない、土御門(つちみかど)天皇(てんのう)(じょう)(げん)元(1207)年月上旬に念仏禁止が出された。(しゅ)上臣下(じょうしんか)ともに、法に(そむ)き義に(たが)忿(いかり)りをつのらせ(うらみ)にとりつかれている

これによって、真宗を興隆されたわれらの祖法然上人ならびに門徒数人を、世間のうわさによって罪科(つみとが)も考えず、みだりに死罪にし、あるいは僧の資格を奪い、俗名を与えて遠流(おんる)(島流し)に処した。わたしはそのひとりである。そうであってみれば、すでにわたしは僧でなく俗でない。このゆえ「禿(とく)」の字をもって姓とする。法然上人ならびに弟子たちは、諸方の辺鄙(へんぴ)なところに流され、五年の歳月をへた。

 かくして35歳の親鸞聖人は、みだりに専修念仏の教えを禁じたものへのおさえることのできない怒りを胸に、流罪の地・越後の国府に赴かれました。越後の地は、京都になれた聖人の目には全くの別世界として映りました。そこで聖人が出会われたのは、辺地の荒涼としたとした自然であり、富や権力などとはまったく無縁に、人間としての命を赤裸々に生きている「いなかのひとびと」の姿でした。そしてその地で聖人は妻惠信尼と幾人かの子どもをかかえながら、新たな生活を送っていかれたのです。

 そこには、善根(ぜんごん)を積むことはおろか、生き延びるためにはたとえ悪事とされていることでも、あえて行わなければならない悲しさをかかえた人々の生活があったのです。その越後の人々の中にあって、聖人は惠信尼との間に幾人かの子をもうけられました。文字どおり肉食妻帯の一生活者となって生きていかれたのです。そして、その生活のなかで聖人は「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という、師法然上人の一言が、いよいよ確かなものとなって心にひびきわたるのを感じていかれたのです。

 今日一日を生きることに精一杯なこの人々こそ、本願を信じ念仏もうすほかない人々であるという切実な思いが深まるとともに、その念仏をどのようにしてこの人々の生活の上にひらいていけばよいかという問いが、重く聖人の心に担われていったのです。まさに聖人は人を化する前に、まず自ら教えられたといえましょう。その歩みのなかから、聖人は非僧非俗の自覚とともに、みずから愚禿釋親鸞という名のりをあげられたのです。                                   合 掌

次号へ続く】

2015.7.1 前住職・本田眞哉・記》

 

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