法 話
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大府市S・E氏提供 |
『同一念仏』
前回、本願寺第八世・蓮如上人が書かれた『御文』の中の「御同朋御同行」について考えてみました。今一度その『御文』一帖目第一通の引文をここに記してみましょう。「聖人ハ御同朋御同行トコソカシヅキテオホセラレケリ」。と同時に、このフレーズのオリジンは宗祖親鸞聖人である、とも付言。しからば、その典拠は? 聖人のお言葉を史料に尋ねてみましょう。先ずは『親鸞聖人御消息集』。「消息」とは手紙のことで、親鸞聖人が書かれた手紙を収集したもの。『真宗聖典』収録の(二)には次のような記述があります。
(前略)この文は奥郡におわします同朋の御なかに、おなじくみ な御覧そうろうべし。あなかしこ、あなかしこ。としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ。おぼえそうらえ。よくよく御こころえそうろうべし。
【要旨】この手紙は、京都から遠く離れた地方の同朋・念仏の仲間で御覧ください。謹んで申し上げます。長年の間、念仏して往生を願う姿は、かつて自らの悪い心を思い返して、同じ念仏の仲間と親しむ思いを持つようになれば、迷いの世界を厭うすがたになることができましょう。よくよくお心得おきください。
一方、親鸞聖人のお言葉を伝承する『歎異抄』の中にも「同朋」を含む文言が見受けられます。それは第十八条。
(前略)故聖人の御ものがたりに、法然聖人の御とき、御弟子そ のかずおおかりけるなかに、おなじく御信心のひとも、すくなくおわしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして、御相論のことそうらいけり。そのゆえは、「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」とおおせのそうらいければ、勢観房、念仏房なんどもうす御同朋達、もってのほかにあらそいたまいて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、ひとつにはあるべきぞ」とそうらいければ、「聖人の御智慧才覚ひろくおわしますに、一ならんともうさばこそ、ひがごとならめ。往生の信心においては、まったくことなることなし、ただひとつなり」(後略)
【要旨】今は亡き親鸞聖人が、かつてこんなお話をされました。法然上人御在世のころ、たくさんおられたお弟子達の中で、上人と同じ信心に生きた方は少なかったために、親鸞聖人は同朋の方々と信心について論争をされたことがありました。というのは、聖人が「善信(親鸞)の信心も法然聖人の信心も、同一である」とおっしゃったところ、勢観房・念仏房などという同朋の方々が、「そんなことは、もってのほかだ」と反対して、「どうして、師匠の法然上人の信心と善信房の信心が同一であるはずがあろうか」と言われたので、「なるほど上人は智慧才覚が優れていらっしゃる。それと同じというならば、間違いであろう。しかし、浄土に往生する信心は、全く異なることはない、ただ一つである」と、お答えになった。(後略)
因みに『歎異抄』とは? 近ごろ、新聞に『歎異抄』の出版広告が掲載されているのを度々眼にします。もともと『歎異抄』の名は世間でよく知られていいる名著です。著作者は諸説ありますが、聖人の直弟子・河田の唯円作というのが定説。年代的には聖人滅(1262〈弘長2〉年)後30年ごろとされています。内容は文字通り〝異なるを嘆く抜き書き〟。聖人在世中から聖人の実子・善鸞の異義をはじめ、異説異端を称える者が数多現れたとのこと。唯円は、聖人から直接聴いた正しい教えを後世に残そうと筆を執ったのです。
この『歎異抄』中で人口に膾炙している一条があります。高等学校の『日本史史料』にも引用されています。それは、第三条。
善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。(後略)
【要旨】善人でさえ阿弥陀仏の浄土に生まれることができる。まして悪人は、いうまでもない。それなのに、世間の人たちは、つねに次のように言っている。「悪人でさえ、浄土に生まれることができる。まして善人が浄土に生まれることができることは、いうまでもない」と。これには、一応もっともな道理があるように思われるけれども。阿弥陀如来の本願・他力のこころに反するものである。
このパラドックス的な価値観が、ストーンと胸に落ちるにはかなり時間を要するのではないでしょうか。一つ間違えるといわゆる〝造悪無碍〟に陥る可能性大。格調高い美文で書かれた『歎異抄』ですが、こうした鋭い、受け取り方によっては誤解を招くような表現が多々あります。そうしたことから、『歎異抄』は〝カミソリ聖教〟と呼ばれることも。それかあらぬか、『歎異抄』は成立(西暦1300年頃)から200年間ほどほとんど知られていなかったといわれています。目を覚ましたのは室町時代。蓮如上人が書写されたのがきっかけ。今日最古の書写本はこの「蓮如本」といわれています。
ところが、その蓮如上人が歎異抄を封印。蓮如本の奥書には「右斯聖教者為当流大事聖教也」(右の聖教は、当流大事の聖教と為すなり)。「於無宿善機無左右不可許之者也」(宿善の無き機においては、左右無く之を許すべからざるものなり)。そして末尾には「釋蓮如 御判」。かくして、『歎異抄』は再び休眠。なお、「無宿善の機」とは、信心獲得の因縁のない人。要するに、仏教をよく知らないで歎異抄を読むと、誤解を招くということでしょう。蓮如上人滅後百数十年、江戸時代初期に東本願寺の学僧・圓智師が『歎異抄私記』(西暦1662年刊)を著し、歎異抄は眼を覚ましました。
※機:縁に遇えば発動性を持つもの 教化の対象
その後、香月院深励師(1749~1817)が『歎異鈔講林記』を述作するなど、歎異抄関連の講究活動もあったようですが、宗門内や一般社会に風を起こすまでには至らなかったようです。爾後、時は流れて100年、明治時代後期に至って『歎異抄』はにわかに注目され、脚光を浴び始めることになりました。伝えられるところによりますと、学僧・清澤満之師が東大の図書館で『歎異抄』を見つけ出し、世に広めたのがその発端だったとか。その後『歎異抄』は、経験科学の様々な手法を用いて研究する宗教学の一テーマとなり、作家・思想家・哲学者等々の間にもその名を馳せることとなりました。結果、発禁は事実上解除されることに。
因みに、清沢満之師は我が愛知県の出身。1863(文久3)年、名古屋黒門町で出生。6歳の時明治維新、神仏分離令。1878(明治11)年、得度。1883(明治16)年、東京大学文学部哲学科入学。1887(明治20)年、大学院、宗教哲学専攻。1888(明治21)年、真宗大学寮で哲学を講義。清澤やすと結婚。三河大浜西方寺入寺。1892(明治25)年、『宗教哲学骸骨』出版。1894(明治27)年、結核発症、『歎異抄』精神の近代化。1895(明治33)年、宗門に寺務改正を建言。1896(明治29)年、『教界時言』発刊。1901(明治34)年、浩々洞より『精神界』創刊。1902(明治35)年、学監辞任、大浜西方寺帰寺。1903(明治36)年、「我信念」脱稿。同6月6日没。享年41歳。
鎌倉時代後期に唯円によって書かれたとされる『歎異抄』、600年に垂んとする時を経た明治後半、清沢満之師によって三たび眠りから覚めることに。親鸞聖人の徹底した思想信仰を的確に伝える内容であることから、単に宗教書というよりは、高度な思想書として普く世間で読まれるようになりました。満之師自身も経歴にあるように、肺結核罹病後に『歎異抄』の精神を明らかにしようと取り組まれたようです。師は「予の三部経」として『阿含経』『エピクテタス語録』『歎異抄』を挙げています。このことからも、師が『歎異抄』をいかに重用していたかが窺えます。
合掌
2022/05/03 前住職 本田眞哉 記