法 話

(38)「自己責任」           

 周知のように、イラクで邦人3人が武装グループに拘束されました。フリーライターの今井紀明さん(18)=札幌市=とボランティア高遠菜穂子さん(34)=北海道千歳市=、そしてジャーナリストの郡山総一郎さん(32)=東京都杉並区=の3人。

 最初に流れた他国メディアの情報では、武装グループはこの3人を人質として日本の自衛隊のイラクからの撤退を求め、要求が通らなければ3人を殺すということでした。小泉首相は、この要求を直ちに拒否しました。その後情報収集がままならず、錯綜する情報に日本政府をはじめ国民全体が振り回された格好でした。

 解放情報も二転三転。後日の記者会見で明らかになりましたが、人質自身も犯人側の告げる解放時期が再三変転し一喜一憂したとのこと。ようやく解放が確実視されだしたころ、日本国内ではいわゆる「自己責任論」がかまびすしくなってきました。

 イラクは危険地帯であり、日本政府が退避勧告を出していたにもかかわらず、危険を承知でイラク入りして人質になったのだから「自己責任」があるとの論調が出はじめたのです。そしてその延長線上で、その救出のために国民の税金である国費を支出するのはもってのほか…などというご意見も。

 こうした“世論”に対してうまく整理できませんが、何か割り切れない感を抱くのは私ひとりでしょうか。まあ、いろいろ条件はありましょうが、例えば、海・山での遭難の場合、捜索費用の個人負担はどうなるのでしょうか。警告を無視して荒天の山に登り、雪崩に巻き込まれて行方不明になった場合、あるいは、予想外の天候の急変で船が転覆し行方不明になったケースとか。

 はたまた、南極探検に出かけてクレバスに落ちたかブリザードに遭ったか、消息不明になった時はどうなるのかな? いや、この場合は人質になったわけでもなく、家族も危険を承知の上での「探検」で、国に捜索を求めないだろうから、「自己責任」は「自己完結」してしまうのかも。

 話は飛びますが、いわゆる「公的資金注入」などの場合はどうなるのでしょうかね。23年前、破たん銀行を救うために何千億円という公的資金が注入されたことがありました。「公的資金」はもちろん国民の税金。経営が健全化され国にその資金を返還した銀行もありますが、銀行の再編、再々編で注入した資金が雲散霧消した銀行もあるようです。

 一方、そうした銀行から融資を受けた巨大企業が破たんし、再建のためとて借金の棒引きが行われます。現代版「徳政令」。いずれの場合もそのトップの経営に関する「自己責任」はどうなるのでしょうか。特段の事件性がなければ法的処罰を受けることもなく、記者会見のカメラの前で頭を下げ、役職を退けば「決着」なのでしょうか。

 いろいろ思いを巡らしても、私の頭の中は混乱するばかりで整理がつきません。ただ、430日の今井さん、郡山さんの記者会見を見て感じたことは、日本の若者の中にも(失礼)確たる信念を持って行動できる人間がいるのだということです。心身ショックの恢復が充分でないため会見に出席できなかったけれども、高遠さんも然り。イラクの子どもたちを救おうとボランティア活動に挺身し、今回も彼女を待つ子どもたちのもとへ赴く矢先拉致されたのです。

 現地対策本部にかかった経費がどうとか、外務省の会議費・時間外手当がいくらかかったとかなどという声も聞かれますが、ここは一つ度量を拡げて、日本政府も国民も、そういう費用は“人道支援”のため、“情報収集”のための「公的資金注入」と考えたらいかがなものでしょうか。

 アメリカのメディアは、日本では無事解放された人質が冷淡に扱われ、「自己責任論」を中心とした非難の声を浴びている、と驚きの声をもって報じているとのこと(427日付け中日新聞)。アメリカ人の目には、日本政府が個人の信条を虐げているように見え、人質事件に対する日本の「お上(OKAMI)」の対応は全く不可解・奇異に映っているようです。

 この視点から見れば、仮定の話ですが、3人が自衛隊のイラク派遣に賛成し、自衛隊活動を側面的に支援し、フリーカメラマンがその状況を日本へ伝えようとした、ということであったら「自己責任論」は出なかったかも。ただし、この仮設の場合、逆に人質は武装グループに殺されることになったでしょう。

 以上は、風薫る好季とは裏腹に、今宵めぐらした愚案の“呆話”の一節。悪しからず。合掌

2004.5.1住職 本田眞哉・記》
       

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