法 話

(40)「光と闇」           

 またまた痛ましい事件が起きました。佐世保・大久保小学校6年生の女児が同級生の女児をカッターナイフで切って死に至らしめた事件。しかも惨事は校内のラーニング・スペースで給食時間に発生したとのこと。ニュースを聞いて身の毛のよだつ思いでした。

 新聞記者の父親は、あまりのショックに何が起こったのか状況を把握できなかったようです。初回の会見は職業倫理の成せるところか、極力平静を装って健気に対応していらっしゃいましたが、以後会見には顔を出していません。苦渋の胸の内を物語っているようです。

 一方、事件に出動した救急隊員も惨事ストレスと思われる症状を訴えているとのこと。中には1週間以上職務に復帰できない隊員もおり、臨床心理士のカウンセリングを受けたとか。また「自分を責めないで」などという励ましのメールやファクスが消防署に届き、こうした応援の声をきっかけに3人の隊員はダメージから立ち直りつつある、と毎日新聞の電子版は伝えていました。

 関係者はもちろん、広く一般社会に対しても大きな衝撃をもたらしたこの事件、その原因・動機は何だったのでしょうか。続報によれば、動機はインターネット上のホームページとチャットにあったようです。加害女児の“供述”によれば、被害女児・御手洗怜美さんとのネット上でのやり取りで、身体的なことについて悪口を書き込まれたのが事件のきっかけになったようです。

 そして、以後何回かチャット上のオンライントークで“口撃バトル”が繰り返され、もとはなかよしだった2人の間の溝は急速に深くなっていったものと想像されます。回を重ねるごとに事態は深刻化し、ついに最悪の結果を招くことになったのでしょう。カッターナイフを事前に用意するとか、計画的な面も窺われます。

 ネット上のやり取りは直接顔を合わせていないため、書き込む側は頭で考えている以上にきつい表現になり、受け取る側も相手の顔の表情や声の響きを感じることができず、同じ内容でもカチンとくることがあります。私自身もそうした経験があります。世間の評論家も同様な指摘をしておりますがごもっともな話。

 ところが一方、小学生や中学生、いわゆる年少者のインターネット利用を制限すべきだとの声があがっているのも事実です。いかがなものでしょう。この件に限らず、子どもたちの事件が起きるとすぐに大人たちは“規制”を持ち出します。以前、中学生によるナイフ殺傷事件が相次いで発生した時、「ナイフを学校に持ち込むな」という異例の通達が出され、学校では持ち物検査が行われたことがありました。

 大人たちは、新しい時代(トレンド)についての学習、子どもたちに対する日ごろの心配り、そしてあらゆる場面を通じての教育について意を注がずにいて、一旦事件が発生すると泥縄規制に走る傾向があります。

 佐世保の事件についてある識者は、子どもたちが全面的に悪いわけではない、子どもたちを取り巻く環境の変化に対する大人社会の対応の悪さがが問題の根っこにある、と指摘していますが、私も同感。昔の子はこんなことはしなかった、今時の子は…という嘆きの声をよく耳にしますが、一方的に子どもたちを責める前に、大人社会の今と昔の差異に眼を向けなければいけないでしょう。

 文化庁の河合隼雄長官がラジオ放送で「昔と比べて今は心の豊かさが欠けているといいますが、科学技術が進歩して物が豊かになりすぎたために、相対的に心が貧しくなったように思われるのです」といった意味のことをおっしゃっていました。

 まさにその通りだと思いますが、問題なのは物が豊かになり便利な生活にどっぷりつかっている私たちが、その豊かさ便利さの裏に潜む危険性や落とし穴についてどれほど学習し、そしてまた、そのことを子どもたちにどう教えてきたかということです。

 そもそもインターネットは、便利である反面大きな問題を孕んでいるのです。それは人と人、心と心の問題、face to face、heart to heart の問題です。インターネットの世界では、顔を合わせるのはディスプレーであり、対話するのはマシーンであります。繋がるのは心と心ではなくマシーンとマシーン。

 因みに、インターネットの生い立ちを尋ねると、1960年代末の米国防総省高等研究計画局(ARPA)による開発に遡るようです。冷戦中の当時、水爆攻撃を受けてもどこかのコンピュータが生き残って使えるように、全米の大型コンピュータを接続したのがその発端とか。

 その後、1980年代なかばに全米科学基金(NSF)がネットを構築した時ARPAの非軍事部門、エネルギー省、NASAなどのネットが吸収されたということです。資金的にはNSFやミシガン州といった公的資金とIBMはじめIT関連3社のボランタリー資金でまかなわれることになり、インターネットと名付けられました。さらに企業も参加してネットは飛躍的に拡大。

 こうしたボランタリー性を帯びた生い立ちのインターネットには厳格な使用基準はなく、「しつけのよいアナーキズム」ともいわれるように、無政府状態ながら参加者の自主規制による仮想社会。果たして、こうしたことが一般的に認識されているのでしょうか。

 まず、大人たちがこうしたことをしっかり学習しなければいけないと思います。そして、子どもたちへの指導の中にこのことを織り込んで、インターネットの負の部分の認識を徹底させることが必要だと思います。

 今回の佐世保の事件は、はからずもこうした問題を浮き彫りにしたともいえましょう。だからといって、危険性なものにはフタを、という短絡的な発送で規制するのでなく、この事件を機に、インターネットに限らず現代の文明の利器に潜む「影」の部分の教育に留意しなければならないと思います。何事も、「光」が当たれば必ず「影」が生じるというのが、ものの道理ではないでしょうか。合掌

2004.7.1住職 本田眞哉・記》
 

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