本願力にあいぬれば

むなしくすぐるひとぞなき

功徳の宝海みちみちて

煩悩の濁水へだてなし
 
             
 

法 話

(41)「立ち往生」と「往生」           









                    親鸞聖人作 『高僧和讃』より

 
 今年の夏は暑い。猛暑です。酷暑です。カラ梅雨のうちから始まった真夏日は、梅雨明け後になって本番。気温はうなぎ登りで、34℃〜35℃は月並み。ついに720日には東京都心で39.5℃を記録。観測史上の最高記録とか。甲府市では21日に40.4℃と歴代2位の暑さ。

この猛暑のため救急車が“大繁盛”。いわずもがな、熱中症多発のためです。数字は忘れましたが、大変な数の患者を搬送したとメディアは伝えていました。カンカン照りのもと、肉体労働をしたり、帽子もかぶらずに営業活動をしたり、水分も摂らずに仕事に“熱中”していると熱中症になるとか。いやいや、家の中で安静にしていても熱中症になることがあるそうです。特に老人がかかりやすいとか。私も気を付けなくちゃ。

ところが、この猛暑悪いことばかりではないようです。否、むしろ大歓迎のムキも。猛暑のために売れに売れている商品・サービスがあるのです。そう、ビールやかき氷にアイスクリーム。そしてエアコンも飛ぶように売れ、在庫が底をつきメーカーは増産体制に入ったとか。もちろん海水浴場も大繁盛。昨年の冷夏の分も挽回できるとも。

ここら当たりまでは「なるほど」とうなずけますが、猛暑のおかげで目薬がよく売れるとか、生ゴミ処理機の需要が増えたとかいう話になると、「風が吹けば桶屋が儲かる」の伝で、一ひねり必要なのかも。

いずれにしても猛暑によって購買力が増大し、経済が活性化することは間違いありますまい。暑さがこのまま続けば、経済効果は3,500億円にのぼるとも。あるアナリストは、猛暑によってGDP0.35%押し上げられると予測しています。

ひるがえって、722日付け中日新聞の社説は「暑い夏 これは地球の警告だ」と、“異形の夏”の問題点を指摘しています。暑い夏は地球温暖化と無縁ではないと。もちろん、その背景には都市化によるヒートアイランド現象があることはいうまでもありません。

わが家のエアコンもヒートポンプ方式。訳せば「熱ポンプ」。要するに室内の暑さを室外へ汲み出すシステム。自分(室内)さえ涼しければよい、他人(室外)は暑くなろうが気にしない、というのが冷房の基本的な考え方。実に身勝手な話。郊外なら緑も多く、さほど問題にならないかも知れませんが、コンクリート・ジャングルの都心では文字どおり“熱の島”になってしまいます。

科学技術の進歩のおかげで、冷房装置を使えば夏を快適に過ごすことができ、冷蔵庫を開ければいつでも冷たい飲み物を手にすることができます。しかし、その裏に副作用として温室効果ガスを生み出しているのです。

冷媒に使われている代替えフロンは、温室効果の元凶ですが、その排出量は減るどころか増える傾向にあるようです。加えて、電力消費の代償として石化燃料から出る炭酸ガスも、これまた微増の状況。京都議定書の目標達成はまず困難との見方が有力。

ということは、日本列島は今後も暑い夏や異常気象にたびたび見舞われる恐れがあるということでしょう。折りもおり、酷暑のニュースと相前後して新潟や福井での集中豪雨災害の様子が報道されました。4年ほど前当地を襲った東海豪雨のことが思い出されました。時間雨量90oという100年に1回あるかないかという猛烈な雨に、町中が水浸しになりましたっけ。

今回の集中豪雨も85oを記録したとか。いずれも土木工事や治水工事の想定雨量の倍以上の数値。最近、他のところでも50o60oという猛烈なスポット豪雨が降ったというニュースをよく耳にします。どうも日本の雨の降り方が亜熱帯・熱帯方に変身してきたのではないかと思われます。まさに「これは地球の警告」かも知れません。新潟や福井の豪雨の被害は甚大なもので、死者は20人に垂んとし、鉄道の鉄橋まで流されるというもの凄さ。

こうした災害報道の中、連想ゲームまがいで恐縮ですが、よく目に入ってくるヘッド・ラインが「列車が立ち往生」。きょう(726日)の新聞一面トップのロープウェイ事故の記事でも、「落雷で停電 1050人立ち往生」の大見出しが載っています。この「立ち往生」という語、どうも私にはしっくりこないものがあります。

辞書で調べてみますと「ゆきづまって、どうにもならないこと。途中で止まったまま、動きがとれないこと。」となっております。「往生」という単語についても、一般的には「往生した」といえば、参ったとかゆきづまったとか、ネガティヴな意味で使われています。仏教の本来的意味とは異質な使われ方だと思います。

親鸞聖人が開顕された本願念仏の教えにある「往生」には「ゆきづまる」などの意味は全くなく、新しい純粋な世界に生まれるというポジティヴな意味なのです。浄土真宗の教えでは、「往生(おうじょう)」と「成仏(じょうぶつ)」は不即不離、セットで味合われる法語です。誤解を恐れず、独断と偏見で両者をズバリ断じれば…

「往生」とは、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の身を持ったまま達する境地で、現生(げんしょう)(今生)において得る利益(りやく)。元来、煩悩は仏果に至る道の障害となるもので除去しなければならない。そのためには難行苦行をして仏道を極めなければならない、というのが仏教界の一般的な教えでした。

ところが親鸞聖人は、その常識を覆したのでした。聖人は、比叡山における20年に及ぶ学問・修行にも拘わらず道が見つからず山を降り、悶々とする中念仏の教えに出会われ、自力無効に目覚められたのです。自ら久遠の凡夫の発見と謳い、煩悩具足の凡夫と宣言されたのです。笠原一男氏は「親鸞 煩悩具足のほとけ」とおっしゃっています。

親鸞聖人のライフ・ワーク『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中の詩『正信偈(しょうしんげ)120行の中に「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」の一行があります。その意は、煩悩を断ぜずして涅槃を得る。まさに煩悩具足の身をもって涅槃の境地に至る(往生する)。当時の仏教界にとっては驚天動地の革命的テーゼであったでしょう。

もちろん、たなぼた式にこの境地が転がり込んでくるわけではありません。その前に「能発一念喜愛心(のうほついちねんきあいしん)」の一行があることを忘れてはなりません。「よく阿弥陀仏の本願を信じ、喜びの心が起きるならば」の意。本願念仏の教えを聞き開き、阿弥陀如来の智慧の光に照らされて自己が明らかになった時、心の転向(回心(えしん))が得られ、何にも代えがたい喜愛の心満ちてくるのです。

喜愛の心のもと、煩悩具足のまま全く新しい価値観の世界が拓かれるのです。本願力によって新しい境地に生まれさせていただけるのです。「往生」であります。その境地を「正定聚(しょうじょうじゅ)」ともいいます。正しく定まったところ。何が定まったかといえば、往生が正しく定まり、いのち終えれば必ず浄土において仏になることが定まっている。言い換えれば、当来の世において仏になることのできる予約席。

かくして、正定聚のともがらは、本願力による救済を信じ念仏申し、煩悩具足のこの身が終われば、浄土において「成仏」することができるのです。因みに、真宗のキャッチコピーは「本願を信じ念仏申さば仏になる」であります。合掌

2004.7.26住職 本田眞哉・記》
 

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