蓮如上人、仰せられ候う。

「物をいえいえ」と、仰せられ候う。

「物いわぬ者は、おそろしき」と、

仰せられ候う。

法 話

(42)「物をいえ」           










                 『蓮如上人御一代記聞書』より


 八月や 六日九日 十五日 ―詠み人知らず―

 毎年めぐりくる八月。暑さとともにあの重苦しい記憶がよみがえってきます。いうまでもなく、六日は人類史上初めて広島へ原子爆弾が投下された日。九日には長崎上空で第2弾目の原爆が炸裂しました。そして十五日はいわずもがな、太平洋戦争終戦の日。

 しかし、これらの悲しい事実の記憶は、人々の間から年々薄れていくようです。伊藤一長・長崎市長が平和宣言の中で、「はたして世界のどれだけの人が記憶しているでしょうか。59年前の今日、8月9日、午前11時2分、米軍機から投下された一発の原子爆弾によって、まちは一瞬にして廃墟と化しました。死者7万4千人、負傷者7万5千人。」と述べているように。

 戦後生まれが総人口の74%となった今では、平和ボケのなか、原爆の恐ろしさ、戦争の悲惨さの記憶が風化していくのも無理もないことかも知れません。しかし、風化させてはならないと思います。そのためには、実体験者や語り受けた世代が、次世代・次々世代へと語り継いでいかなければなりません。

 秋葉忠利・広島市長は「平和宣言」の中で、8月6日から来年の8月9日までを「核兵器のない世界を創るための記憶と行動の日」にすることを宣言しております。そして、「核兵器の非人間性と戦争の悲惨さを、特に若い世代に理解してもらうため、被爆者の証言を世界に届け、『広島・長崎講座』の普及に力を入れると共に、さらにこの一年間、世界の子どもたちに大人の世代が被爆体験を読み語るプロジェクトを展開します」と、決意表明しています。

 まさにそのとおり。戦争の悲惨さや残酷さが忘れ去られ、平和の尊さや有り難さが感じられなくなると、タカ派的発想が頭をもたげてきます。イラク戦争を始め国際情勢が緊迫するなか、世界に冠たる日本国憲法の平和理念の足元がぐらつき始めてきたと思うのは私ひとりでしょうか。内橋克人氏の「戦争を知らない軍国少年」(8月24日付中日新聞夕刊)の行動が気になるところです。

 そうしたなか、私自身、ささやかながら戦争の悲惨さの“語り部”のお手伝いができれば、と思っています。とはいうものの、戦中派の中でも若い年代である上、田舎住まいだったので、野戦はもちろん、学徒動員や空爆の実体験はありません。身近な体験の中から、子どもたちにも及んだ戦時下の過酷な生活状況を以下に記し、次世代への伝承の一端になれば幸いです。

 ☆          ☆          ☆

 1944(昭和19)年9月、名古屋市南区の道徳国民学校の3年生の女子児童約40名が了願寺へ疎開してきました。本堂で寝起きし、食事をとり、勉強もしていました。

 賄いのおばさんと寮母さんが派遣されてきていましたが、煮炊き以外の“家事”は、健気にも学童が全てこなしていました。食材の仕入れは、本部の置かれていたお寺へリヤカーで毎日取りに行きました。庫裡の大かまどで炊いたご飯(といっても麦が半分)や、おかずを本堂まで運ぶ。もちろん今のようなワゴンもなく、暗くて足元の悪い屋外を手持ちで。身長の三分の一もあろうかと思われる大薬缶を、よろけながら本堂の階段を上がる…。そんな光景が今でもよみがえってきます。

 1週間に1回だったか記憶が定かでありませんが、「面会日」がありました。親が食べ物を持って面会に来ました。少しはストレスの解消になったかも。ところが、いろいろな事情で面会に来られない家庭の子もありました。じっと耐えていて、惨めでした。

 衛生状態は最悪。まずはトイレの問題。トイレは水洗でもなければ、浄化槽なんてものもありません。ボトン型の汲み取り式。しかも本堂から離れたところに一つだけ。夜になると、「誰かご不浄へ行かない?」と誘っている声が聞こえてきたものでしだ。お墓はすぐそばにあるし、暗くて怖かったのでしょう。それにしても、「ご不浄」などいう言葉使いは、さすが“名古屋衆”。

 その他の水回り関係も、今と比べれば不便そのもの。発展途上国以下かも。もちろん上下水道なし。疎開学童受け入れのために境内の隅に新たに井戸を掘削。水質はあまりよくないものの、水量は豊富。檀家の人たちの奉仕で竹製の流しをしつらえ、杉皮葺きの屋根を付けて、にわか作りの炊事場が完成。

 風呂水も、その井戸から当番の子が運びます。大型バケツに水を汲み、30メートルほど離れた風呂場まで、10回以上往復しなければなりません。給湯器もなければ、ガスバーナーもない。釜の下の焚き口に、わらや薪をくべて湯を沸かすのです。冬ともなれば、沸き上がるのに一時間以上もかかります。

 風呂は五右衛門風呂。かまどの上に、直径約80センチ凸型の平釜を乗せ、その上に直径が凸部よりやや大きめで、高さ90センチほどの木の桶を据えます。釜の凸部と桶との隙間にわら縄を詰め込んで水漏れを防ぐという代物。桶に横方向の力が加わって傾き、釜からはずれれば水は一気に抜けてしまいます。

 五右衛門風呂は、盗賊・石川五右衛門が釜ゆでの刑に処せられたという俗説にちなんで名付けられたとか。この風呂に入るには、いささか勇気とコツが必要。底の釜に直に触れればやけどします。そこで、湯面に浮いている丸い板をバランスよく足で沈めながら入るのがコツ。あの十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも出てくる話。おそらく都会の学童の家にはこんな野蛮な?風呂はなかったでしょうから、慣れるまで大変だったと思います。

 そんな風呂に40人が入ろうというのだから、難儀を通り越して悲惨。2日に1回入浴するとして、毎日20人。初めにわれわれ家族や先生・寮母等10人ほどが入ります。そのあと、2人ずつ入ったとしても10回入る勘定。

 当時の給水(湯)方法では、湯の入れ替えはもちろん補充も不可能。予備の水をバケツに2杯ほど用意しておくのが関の山。追い焚きも大変な作業。遊び盛りの子どもが、2日に1回(いや、もっと間隔があったかも)の入浴では、桶の湯がドロドロになるのも無理のない話。

 一方、本堂の衛生状態はといえば、蚤が集団発生。本堂へ入ると、足首から膝へと、ゾロゾロとはい上がってくる始末。毛ジラミにも悩まされました。セーターを煮沸したり、DDTを髪の中に噴射したりして、悪戦苦闘。シラミ退治は蚤退治より難儀でした。

 最悪の衛生状態のためか、今度は皮癬(ひぜん)が発生。皮癬は、疥癬(かいせん)ともいい、ヒゼンダニの寄生によって発症する皮膚病。指間・内股・脇の下など、皮膚の柔らかい部分にダニが食い込み、非常にかゆくなります。人から人へと伝染するので、集団生活の大敵。寮母のおばさんが、風呂桶の前でメス・シリンダーを持って薬液を調合していた姿が今でも目に浮かびます。

 そうしたなか、父恋し母恋しの思いを小さな胸に秘め、子どもたちは緒川国民学校で勉学にいそしみました。私は、彼女たちより一学年下の二年生。空き教室を活用したのか、二部制授業だったのか分かりませんでしたが、とにかく数ヶ寺に分宿している200人以上と思われる疎開学童が、緒川国民学校で学んでいたのです。

 子どもたちが疎開生活にも慣れた、二学期も終わりに近い12月7日午後1時半ごろ、激震が発生。東南海地震。今の震度でいえば、7ほどの揺れ。本堂のあまりの揺れの大きさにたまげてか、学童は全員退去。他のお寺へ“移住”したのでしょう。他のお寺や地域では、終戦まで集団疎開は続けられた模様。

 他の地域といえば、以前私が調査した中に、大変悲惨な学童集団疎開のケースがありました。蛇足ながらその一端を紹介しましょう。

 愛知県西尾市の安楽寺で起こった悲劇。名古屋市中区の大井国民学校(現・大井小学校)の学童は、最初海部郡の蟹江の方へ集団疎開していました。ところが、近くに誤爆か、爆弾が投下され、これは危険だということで、西尾市の安楽寺へ再疎開。そこへ三河地震。1945(昭和20)年1月13日未明のことでした。本堂が倒壊して学童8人が即死。駆けつけたある母親は、遺骸を前にして「お母さんと一緒に空襲で死んだほうがましだった」と肩を震わせたといいます。

 戦争は、戦闘員のみならず何の罪もない子どもたちの命を奪い、家庭も悲劇に巻き込みます。いまだに世界各地で戦闘行為が繰り返されています。メディアでそうした場面を見て、かわいそうだ、残酷だとは思いますが、今ひとつ距離を置いてしまいます。しかし、60年前には、この日本で現実に起きていたのです。

 現在の平和な日本に誇りを持つとともに、悲劇を再び繰り返さないために戦争の悲惨さ残酷さを次の世代に語り伝え、非戦・平和の誓いを新たにするものであります。合掌

2004.8.31住職 本田眞哉・記》
 

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