法 話

(46)「転悪成徳(てんなくじょうとく)

円融至徳嘉号 転悪成徳正智の正智

円融至徳(えんにゅうしとく)号(かごう=南無阿弥陀仏)

 転悪成徳
(てんなくじょうとく)の正智(しょうち)

              親鸞聖人作『教行信証』より


明けましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

「『災』サル年、来る年『ケッコー』な年」となればよろしいのですが、なかなかそうは参らぬようです。今年こそは平和な年、幸せな年になってほしいと願うのは私ひとりではありますまい。しかし、日本国内外の状況は非常に厳しいものがあります。

 昨年は災害の年でした。日本列島への台風の上陸数は、年間10個。観測史上初めてのこと。従来ならば台湾付近から中国大陸方面へ直進するコースを取っていた台風のいくつかが、直角に方向転換し、あるいはUターンして日本方面へ向かい上陸するケースよく見られました。加えて、11月になっても日本本土に台風が上陸するという例も。平年に比べればまさに“異常気象”というほかありますまい。

こういう兆候の根っこには、やはり地球温暖化の影響があるのではないでしょうか。台風は熱帯生まれですから冷気を嫌います。したがって、季節が夏から秋に進むにつれて日本列島地域の上空の気温は低下し、特に冷たい高気圧が張り出してくると、それに阻まれて中国大陸方面か太平洋に流れるか、あるいは急速に衰退するはずです。ところが、今年は日本列島付近の気温が高かったため、上陸台風が多かったのでしょう、これも人間が摂理に反して地球温暖化の原因をつくってきたたつけでしょうか。

台風災害に追い打ちをかけるかのように地震も発生。新潟県中越地震。山岳地帯の直下型のせいか、土砂崩壊は未曾有の規模で起きました。東海地方では、1944年12月に東南海地震、翌45年の1月に三河地震が発生し私自身も経験していますが、土台ごと家が滑り落ちたり、道が跡形もなく谷に飲まれたり、といった例は見たことがありません。

当地方では、東海地震や東南海地震が近未来に発生すると予測されています。いつ起こっても不思議ではない、と。突然襲いかかる地震災害、中越地震の惨状が幾度も報道されるなか、次は我が身かと不安に駆られるのも無理のない話。しかし、分かっちゃいるけどなかなか進まない家庭での耐震対応策。

そんなところへまたもや激震情報。今度はインドネシア・スマトラ島沖が震源。海中で発生したため、前代未聞の大津波。日が経つにつれて被災状況は拡大するばかり。津波はインド洋周辺の十余カ国を襲い、死者は十二万人余に及ぶとか。一瞬のこととて逃げる間もなく、人間も家屋も、はたまた山の立木まで根こそぎ10mを超える波にもぎ取られたという。300qに及ぶ海岸線が全滅の被害に遭ったところも。

なぜこの津波災害が甚大になったのでしょうか。津波の情報伝達システムの構築が、日本国内に比べて大変遅れていたことが被害拡大の主因とみられています。特にタイやスリランカのリゾート地では、警報によりかなりの人々が死なずにすんだと思われます。

いずれにしても、自然災害に対する対応策を徹底することの必要性はいうまでもないことですが、さりとて自然災害の発生自体を人間の力で防ぐことはできません。要は、自然事象の発生そのものはもちろん、そこから派生した被害をどのように受け止めることができるかということが問題です。

換言すれば、受けた「悪」をどのようにして「徳」あるいは「善」に転じることができるかということ。経論では「転悪成徳(善)」とお教えいただきます。「悪を転じて徳(善)と成す」ということです。似て非なる言葉に「廃悪修善」という熟語があります。

「廃悪修善」とは「悪を廃して善を修する」、自分で力を尽くして悪を廃棄し善根を積むということ。ところが、いくら修行してもなかなかそんな力は得られませんので、神頼み仏頼みということになります。いわゆる「祈祷」とか「お祓い」とかいう宗教行為で、自分の願いや希望(欲望)を専門家に依頼して善行を“代行”してもらって「善」獲得しようというわけです。

親鸞聖人はこうした行為を徹底して批判されました。それは比叡山での20年間に亘る学問・修行の中で、聖人ご自身が感得された実体験に基づくものです。「自力無効」の苦悩を抱きつつ比叡山を下り、京の巷で専修念仏の教えを説く法然上人に出遇い、自分の歩むべき新しい道を見いだされたのであります。

法然上人門下でお育てを受け、南都・北嶺の奏上に基づく朝廷からの念仏弾圧の法難に遭い、聖人の宗教感覚はますます研ぎ澄まされその極地に到達されました。「自力無効」の上に獲得された「絶対他力」の境地であります。本願念仏の教えを開顕され、「本願を信じ念仏申さば仏になる」という浄土真宗のテーゼを確立されたのであります。

「廃悪修善」の修行も必要なく、「祈祷」や「お祓い」に頼ることなく、ただひたすらに阿弥陀仏の本願を信じ南無阿弥陀仏を称えることによって救われる道であります。念仏して阿弥陀仏の本願と出遇うことによって、「仏智」が私たちの生きざまを照らし出し、「人知」の何たるかを気づかせていただけるのです。

人知の根底にある三毒の煩悩、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)に始まる自己愛を中心とした私たち凡夫の人生観のメカニズムが、仏の光(智慧)に照らされて明らかになりその事実にめざめた時、今までの価値観は打ち破られ新しい世界が拓かれてくるのです。

悪を廃することなく、悪は悪であるままそのまま受け入れ、むしろ悪に価値を認めるという180度転換した心の世界が展開するのです。まさに悪を転換して徳(善)にする心の働きです。人事を尽くしても避けるこのできない悪(病気や災害等)をそのまま受け入れ、悪に遭遇したことによって逆に何かを学び取ることができれば、悪は徳(善)に転じられることになりましょう。   合掌


2005.1.1住職 本田眞哉・記》
       

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